小原法相の訓示と警視庁の暴力団検挙とは、近来の快事である。ことに我々は最近に被害者であるだけに、その感がふかい。
歴代の各大臣の訓示中、今度の法相の訓示くらい、我々文筆業者に欣ばれた訓示はないだろう。他の諸政策はどんなに失敗であろうとも、あの訓示のためにだけでも、僕などは現内閣を支持したい。我々は、二、三年暗澹たりし日本の空の一角に、日光を仰いだような気がした。
山法師が日枝神社の神輿を担ぎ出すごとく、他を抑圧するために尊王愛国を担ぎ出すくらい、不愉快なことはない、あたかも、尊王愛国が彼らだけの専売であるかのごとくに。日本人の中で、何人(なんびと)かその心胸の奥ふかく、忠君愛国の念を抱かないものがあるだろうか。しかし、そういうことを口にして、少しでも利用しようとすることは、男児の恥である。
前警視総監が、有閑マダムとか文士賭博とか、ただ新聞社相手のスタンドプレイばかりをこととして、虚名を博したに反し、今度の総監のやり方は、真に身を賭して、市民の害毒を除かんとするおもむきがある。それでこそ、真骨頂を持つ官吏である。小栗総監の名は、長く市民に感謝をもって記憶せられるであろう。
ただ暴力団なども、前号に書いた通り、結局失業者の行くべき一つの道である。正業に就かんとしても就き得ないやけも相当にまじっていると思う。結局働かんとするものに常に職業を与えることが、何よりの急務である。先頃、ラジオで英国皇帝陛下が放送された時にも、失業者のことに言及されていた。とにかく働かんとする者はいつでも働ける世の中にしたいものだ。
食えなくなった人間が罪悪を犯せば、国家はこれを捕えて、刑務所に入れる。そして彼らの生活費は国家の負担になる。刑務所で負担する前に、その費用で刑務所の壁外で、彼らを救済する方法はないだろうか。その方が、どれだけ国家を明るくするか分からないと思う。
高等学校の卒業生が毎年四千何百人で、大学への収容者が二千何百人かである。高等学校の卒業生が半分以上ぶらぶらしているという。こんな不合理な学制というものが世の中にあろうか。現在の学校制度は、明治初年のものである。しかも、十分に討究されてない間に合わせのものである。それを、四十年も五十年も拾てておくことはないと思う。歴代の文相に良心的な人間が一人もいなかったためである。
純粋の学問をする大学は、日本に一つあればいいと思う。他は、すべて職業教育を施す専門学校でいいと思う。例えば、文科などにしたところが、美学とか哲学とか、ドイツ文学とか、そんなものをやって、それで就職しようというのは、おかしな話である。
芥川賞、直木賞の選考も近づいて来たが、芥川賞の候補者は、あるようだが、直木賞ははなはだ見つけにくいようだ。もし、直木賞がなかったら、今回に限り、それに充てた賞金は、芥川賞の次席者数名に贈ることにするかも知れない。選考の方法も、委員以外広く一般の人々にも意見を聞いて、衆評の帰するところへ贈りたいと思っている。
朝日の学芸欄に、墨生という署名で、大衆文学におけるギャング文学の(やくざものや侠客を賛美する文学)全盛が、暴力団横行の遠因を成していることを非難している。時にとって至言である。
六月号の「婦女界」を見ると、都河竜氏のような温厚な人までが、小原法相の訓示に随喜している。二、三年来の時勢に対し、心ある人が、どういう風に思っていたかがわかると思う。
(十年六月)
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