この頃、文芸統制ということがいろいろいわれているが、すべて風声鶴唳(ふうせいかくれい)であっておかしいと思う。新聞の学芸欄などの小論は、お先走りが多く、言説の材料がないために柄のないところに柄をつけたような議論が多いようだ。自分でも、問題にならないと思いながらも、問題にしているような問題が多いようである。文芸院とか文芸統制なども、その一つだ。
消極的の文芸統制は、現在警保局の検閲制度で実行しているわけだ。どんな制度ができようが、あれ以上の禁止的統制をやるわけはないと思う。
だから、文芸統制が新しく行われるとすれば積極的統制、即ちある種の文芸の保護奨励以外にはないと思う。国家の欲する文学の保護奨励であろう。もし、国家がおかしな文学を保護奨励したならば、それは世の中のもの笑いになり、そのために純文学が間接的に圧迫される心配なんか、絶対にあり得ないと思う。しかし、国家の欲する文学が、幸いにしてある程度本格の文学であったならぱ、これは文壇のために願ってもないことであり、いい結果を挙げるに決っていると思う。
著作権審査会なるものができ、その委員に、民間からその方面の人々を採用したのは、政府として一進歩である。ことに、文学の著作権を重要視して、文壇から四人も委員を入れたことは、国家が文学に関心を持った最初であるといってもよい。
文芸懇話会の賞金が、横光、室生の二氏に贈られることになった。まず、無難な選定である。創作に精進している横光君や室生君などが報われることは、何となく朗らかな気持ちがする。文芸賞というものは、あって悪くないものだと思った。その金の出所など、詮索する必要はない。その金は、おそらくある篤志家の出資であろう。その篤志家が、名前を出さないのは、その人の謙譲の美徳かも知れないのだ。
芥川賞、直木賞も別項発表の通り、確定した。芥川賞の石川達三君は、まず無難だと思っている。この頃の新進作家の題材が、結局自分自身の生活から得たような千篇一律なものであるのに反し、一団の無知な移住民を描いてしかもそこに時代の影響を見せ、手法も堅実で、相当の力作であると思う。
直木賞の川口松太郎君は、外に人がないのでやむを得なかったのである。川口君は少し有名になりすぎている。去年なれば、ちょうどよかったので、一年くらい期を失している。しかし、川口君にやらないとすれば、授賞を取り止める外はなかったのだ。(川口君にやるか、でなかったらよすか)となると、第一回だけに、やった方がよいと思ったので、川口君に決めたのである。審査員と懇意すぎることも、ちょっと難点であったが、これは我々の良心を信じてもらいたい。そこへいくと、石川君は、審査員は誰も知らない人である。
芥川賞の選定のため、久しぶりに新進作家の作品を、少し読んでみたが、しかし自分は失望した。末梢的な新しさでごまかしているだけで、実際は十年前に比して、少しも進歩していないと思った。ことに、新奇を装っている表現は、新進作家の作品を、いよいよ仲間的にして、一般の読書階級から離れさせるものではないかと思う。大衆に読まれるということは、大衆文学にとって必要なことである。純文学も、大衆に読まれれば読まれるほど、いいのである。
帝大の講堂で、三十年間も堂々と講述された学説が、突如国家的に弾圧されたのでは、まるで夢に夢見る心がするだろう。「人生行路難山にあらず水にあらず、ただ人情反覆の間にあり矣」という言葉があるが、我ら社会人たるものは、そうした境遇の激変に処する覚悟もまた必要なのであろう。
帝都の教育疑獄の判決が、重きは七十円、軽きは二十円なのを見て、僕はだまされたような気がした。たった二十円の罪である。あれで、当局は寛大に処罰したつもりであろうが、検挙そのもので生活を奪われている人たちにとっては、二十円も百円も、否ただの一円でも同じことではないか。
国家は二十円の罰金でいいとしているかも知れないが、本当は職業と生活とを奪っているのである。二十円の罰金は、結局は一万円もそれ以上もの罰金となっているのだ。
商人や職工やサラリーマンであったならば、二、三十円の罰金では実に微罪であって、二、三十円の罰金は、それだけしか、その人を罰しないのである。しかるに、教育家の場合などは、その人の生活を奪ってしまうのである。
そういえば、ある人はいうかも知れない。彼らは責任あり名誉ある位置にいるから仕方がないと。しかし、そんな位置は、平生一文にもならない名誉であり責任である。そして、いったん検挙せられたりすると、たちまちそのために生活を奪われてしまうのである。私は前月号に「新聞紙晒し」のことをいった。その方のせいもあろう。しかし、現代では、検察当局が組織的に機械的になるに従って、トロール船の引く網のごとく、あらゆる微少なる犯罪も検挙しつくしてしまうのではないか。むかしの名奉行のような手心が−−巨魚だけを罰して、小魚を戒める慈悲が、もう少し動いていてもいいと思う。ことに、小学校教員のごとき比較的不遇な位置にあり、他のいかなる職業に比べても、真面目にやっている人々が、たまたま犯した罪などに対しては、何とか法律的の涙が注がれていいのではないか。生活を奪っておいてから、罰金を五十円から三十円に引き下げてやったのでは、何の救いにもならないだろう。
(十年九月)
| 目次 | 《前 後》 |