先月号の「話の屑籠」に書いたことを、林房雄君が、激語だといっていたのは、はなはだ意外であった。僕としては恐る恐るいっていることに過ぎない。が、しかしあれについて、数通同感の手紙が来たところを見ると、案外多くのインテリ大衆の共鳴を得たのかも知れない。
現在の非常時を起した最大の原因は、過去十数年間の政党の堕落にあることは、たしかである。二・二六事件で、七人の大将が現役を退いたに対し、政党の幹部連中も、代議士を辞退した方がいいと思う。彼らが代議士を廃したからといって惜しむ人は一人もいないと思う。
「怠るが故に食えざるに非ず、働けども食えないのである。否、働くにも仕事がないのである」と、これは誰でも感じ、我人ともに、筆では幾度も書いたことである。しかし、議会で叫ばれたのは、麻生氏をもって、初めとするであろう。無産党の進出は、この一言だけでも意義があった。「働くにも仕事がない」ということは、現在の非常時を作っている大きな原因の一つだ。
動反動、動反動、それによって日本が一歩一歩理想的な国家に進んで行くならば、いかなる事件が起っても、我々は暗澹としなくってもよい。それと共に、いかなる事件も、国家をよりよくするために、役立てるべきである。二・二六事件という大雷雨の後で、暗澹としていた日本の空がいくらか晴れ気味になったことは、嬉しいことである。
純文学およぴ純文学者の不況を聞くが、純文学がだんだん商品的価値を失えば、ジャーナリズムから冷遇されるようになるのは、仕方のないことである。もう少し、純文学は読者を歓待することを考えるべきである。読者に読まれるということが、まず最初に大切なことである。題の付け方などにも、そうした苦心があっていいと思うのであるが、何らの新味も感興もない題を付けて平気でいる人が多いようである。
以前にも、一度書いたことがある。昔は、写真屋が十分商売になった。しかし、今は素人がみんなライカなどを持っているので、写真屋はなかなか商売にはならなくなった。現在の純文学も、それに似ている。ちょっとした短篇をかける人が無数にいるのである。こうたくさんいては自然発表の機会も少なくなり、天分の多少優れた人でも、いいものを書く機会が回って来ないことになるだろうと思う。従って世間の注意を惹く機会も少なくなるわけである。文壇は、自発的に、作家の数を整理する必要があるのではないかとさえ思う。
九州大学仏文科の教授をしていた友人成瀬正一が死んだ。これで、新思潮をやっていた五人の中、芥川と成瀬が死んだわけである。こういう友人に死なれると、自分がいつ死ぬかなどということを当然考える。「明日ありと思ふ心の仇桜−−」などいう歌が、思い出されるわけだ。しかし、人間は生きている間に、十分仕事もし、十分生活も楽しんでおけば、安心して死なれるのではないかと思う。来世に希望をつなぐ信仰などよりも、現世をよく生きたということが、安心の種になるのではないかと思う。松平伊豆守が死ぬとき、母が念仏を勧めると、自分はまだ重恩の主君に奉公が足りていない、「御奉公御奉公」と唱えながら死んだというが、これなども現世中心の安心の仕方だ。軍人が戦場で潔く死ねるのも、こうした安心があるからだと思う。
貴司山治君が、どこかの新聞で、芥川賞、直木賞も今によすだろうと書いてあったが、僕の生きている間は決してよさない。僕が死んでも、文藝春秋社が赤字にならない限りは多分よさないだろう。
しかし、一年二回は、選考し難いがら、賞金を倍額にし、一年一回にしたいと思っている。
先月号の本誌新聞月評の中に「金集めの偉人正力読売氏」と題して、正力氏について書いてあることは、少し悪口に過ぎていると思った。ことに、警視庁にいた時資本家の裏面を知っているのを利用して金を出させているなどの非難は、誣(し)いるもはなはだしい。同氏が、警視庁の官吏であったのは、十数年も昔である。その時知った材料などが、今頃何の役に立つだろうか。これは、同氏が新聞をやり始めた頃の悪口が長く尾を引いているので、同氏に対しては気の毒である。同氏に、資本家の後援者がありとすれば、同氏の男性的な活躍に対する応援以外の何ものでもないと自分は思っている。
正力氏のことで思い出したが、自分がかつてある公会の席上演説で、大阪のある新興新聞を「大阪の読売」だといったところ、三、四日後、正力氏と会ったら、あんな新聞を読売と比べるのは怪しからんといって、自分に食ってかかって来た。しかし、これは正力氏のわからず屋であると自分は思った。田舎の町などで、ちょっと賑やかな所にみんな銀座という名がついている。目黒銀座、戸越銀座といった風に。しかし、これは銀座の名誉であれ、恥ではないのだ。東洋のネルソン、近江西郷などといったって、西郷さんが生きていたら怒るだろうか。たとえば、正力氏はその顔付きもやり方もちょっとムッソリーニに似ているから「日本新聞界のムッソリーニだといったって、ムッソリーニは決して怒らないと思う。
(十一年六月)
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