軍備の拡充と増税だけが、現内閣の使命なのだろうか。国民生活の不安を除去するという組閣当時の声明は、どうなったのであろうか。増税による増収の少なくとも半分は、国民生活苦の救済に振り向けるのでなければ、国民は不満を感ずるであろう。
郵税の値上げの増収のうち、三分の二は、現業員の待遇改善のために費やされるというのははなはだいい。それならば、我々も喜んで三銭の代りに四銭の切手を貼り得るのだ。増税に応じ得る気持も、それと同じでありたいと思う。
東京の警察官の非行が、この頃よく新聞に出る。しかし、現在のような待遇をしておいて、そして常人以上の道徳を要求する方が無理だと思う。五、六十円の月給で、常人以上に道徳的で、一般民衆の模範たれといっても無理ではないか。
なにがし教の事件を聞くにつけても、お釈迦様が、女人禁制を説いたのは、偉いと思う。どんな大宗教家でも、二六時中可愛い少女などを傍に侍らしておくと、愛欲煩悩の雲が、いつかかるかも知れないのである。少女を傍におくという制度が、いけないのである。
大本教やなにがし教でも、あんなに流行するのであるから、高潔無垢な大人格者が、新宗教を興したら、かなり流行するのではないだろうかと思う。真言宗の教養とその加持祈祷を少し現代化すれば、立派な新宗教を興し得るのではないかと思う。それにつけても、仏教界に、人無きを痛嘆する。
僕は「文學界」九月号の座談会で、詩は滅びるということをいった。それについて、詩人たちが抗議しないのは怪しからんといって慣慨している人もあるし、詩が滅びるのなら、小説も滅びるわけではないかという人もあるので、ちょっと僕の考えをここで説明しでおく。詩というものは、科学と正反対なものだ。いちばん非科学的な物の見方が詩である。ワーズワースの詩に、子供の時は、星が木の梢のすぐ上に見えた。手が届きそうに見えたという。あの気持なのだ。が、科学は、星が千何万光年の彼方にあることを教えている。不可能が可能に見えるのが詩なのだ。しかし、それは結局は幻覚なのだ。不可能を可能だと考え、それに到達しようとして努力することが、ロマンチック精神だ。しかし、科学は、不可能と可能の限界をはっきりと示してくれた。我々は、詩もロマンスも感ぜられなくなったのである。不可能と可能との限界の分からない、少し頭の中に、もやもやのある人だけにしか、詩は残っていないのだ。感覚や感情の遊戯、あれは詩ではない。詠嘆や感傷なども、あれは詩ではない。詩は、無際限の理想への人間のあこがれだったのだ。ところが、そんな理想は、どこにも無くなったのである。現在あるものは、詩(ポエトリー)の空しき遺骸である韻(パース)だけである。小説は、科学的なものである。自然主義の小説は科学と一致した。科学的精神から来る人生の解剖であり、新発見であって、いっこう差し支えないのである。
ペンクラブの大会が、一九四〇年に東京へ来るということについて、我々は非常に不安を感ずるのである。我々は、日本の政府や東京市が、文筆の士を未だかつて待遇したことを聞かないのである。文筆に対して、少しの関心をも払ったことのない政府や市を相手にして、ペンクラブの大会などを開くことが可能であるであろうか。また政府や市が、ペンクラブの大会に来た外国の文人だけを好遇するということも、おかしなことである。我々日本の文筆の連中には、未だかつて一言の挨拶もしないでおいて、外来の文人だけをちやほやするとすれば、これもまた、はなはだおかしいことである。
しかし、ペンクラブの大会が東京に行われることによって、文人の社会的位置、国際的位置が高められることは確かであるから、僕も、それが成功するようできるだけ尽力したいと思う。それにつけても、その時までには、ぜひ文芸会館を建設しておきたいと思う。それにつけても、アトリエ社の「現代小説全集を」ぜひ買っていただきたい。第一巻の僕の小説集の印税は、全部建設費に寄付するつもりである。
(十一年十一月)
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