話の屑籠・昭和十一年

議会政治が、凋落の秋に当って、壮麗なる議事堂が竣功した。世の中は、皮肉にできているものである。が、先日読んだ星島二郎氏の欧米見聞記によると、米国議会では、議員一人が各自三室ぐらい使えることになっており、また議員一人について、政府から書記二名、ボーイ一人を付けてくれるとのことである。議会付属の書庫は五百万冊を蔵しているとのことである。設備や手当の上では、比較にならないらしい。しかし日本などには、どんな立派な書庫があったところで、それを利用する議員などはごくわずかであろう。


新議事堂に恥かしくないような、立派な代議士を得られるように選挙法の改正をしてもらいたいと思う。現在の選拳法では、いくらやっても、いい人は得られまいと思う。


司法権の発動などは、民衆から、一点の疑義も起らないような明朗正大なものであってほしい。民衆は、裁判記事などを読んでも、どちらに無理があるか、はっきり分かるのだ。

被告のいっていることの方が、より正当なような感じを受ける裁判記事などは、司法権の神聖を汚すことはなはだしい。神奈川県の元事務官が三年以上無実の罪に泣いた話などを聞くと、我々はひとごとながら慄然とする。


オリンピックが、東京へ来るまでに、東京市を浄化するなどいうことをいっている人があるが、浄化の第一歩は、公娼の廃止であろう。外国の選手にサインを求めるモダンガールの取締まりとか、ダンスホールの浄化などは、末の末だ。公娼を許しているような都市が、今までオリンピック都市になったことがあるだろうか。もっとも、オリンピックなどがなくても、公娼だけはなるべく早く廃止してはどうか。


今年は、どこへも講演旅行に行かなかった。もっとも、去年、一昨年と、大抵のところは、一回りしたからである。来年は思い切って、上海から北京、満州、朝鮮というように出かけてみたいと思っている。ただ、多忙なので、一カ月以上の暇があるかどうかが問題なのである。


「新潮」の十二月号に、誰かが会話のリアリティーということを書いてあった。小説の中の会話が、溌剌として真に追ることを、要求しているのだろう。これは、僕も賛成である。この頃の純文学の小説の会話などは、ダルで真実でなく、ただ筋を運ぶ道具にしかならないものが多い。地の文にしろ、会話にしろ、もっと冴えた技巧を持った新人が、二、三人は出てきてもいいと思っているのだが、誰の小説も三、四行も読むと、いやになってしまうようなのが多いのである。

読者を、最初の一行から掴んでしまうことは、作家の責任であると思う。その方がいろいろな文学理論よりも大切だと思う。


「文藝春秋」は、来年十五年を迎える。当初は、いいたいことを書きたいための雑誌であったが、今ではいいたいことの半分も書けなくなった。雑誌が大きくなり過ぎたためもあるが、時代が変ったせいもある。明治大正は、我々文筆の士にとっては、自由な朗らかな時代であったという気が、だんだん濃くなってくる。

(十一年十二月)


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