今度の総選挙の結果、政民両党が大多数を占めたからといって、それが必ずしも、反政府的な現象だとは思えない。第一、政府与党の候補者が初めから出ていないのだから、勝負にはなっていないのである。しかし、現内閣に人気のないことも、確かである。自ら窮地に陥るような解散を断行して、強がってみせるなど、賢明な策だとは思えない。
庶政一新の政策を行うには、もう少し人心を鼓舞激励し、一世の輿論を指導し得るような大政治家を必要とすると思う。非常時局を切り抜ける覚悟を、ただ国民に促すだけでなく、先頭に立つ為攻者自身が、国民を首肯させるような経論と理想を示してもらいたいと思う。現代日本の悩みは、大政治家がいないことだと思う。大政治家がいないばかりでなく、政治界にただ一人の人気者もいないのである。
開腹手術などやるにしても、医師の手腕によって、患者の危険と苦痛とは半減するだろう。庶政の革新などいうことも、政治家の手腕一つで、国民の受ける危険や苦痛は半減するのではないだろうか。誠心誠意、滅私奉公などいう精神だけでは、はなはだ頼りない。精神と共に、大手腕が必要なのである。国民が尊敬し得るような総理大臣は、何時が来たら現れるのだろうか。
政府当局の総選挙の結果に対する批評は、詭弁に近かった。官憲がああいう詭弁を弄するのは、はなはだよくない。
立候補者以外の者には投票ができないという制度が、いかに不合理であるかは、今度の選挙で、かなりよくわかったと思う。供託金を出して立候補するということは、本当の聖人君子などは、やらないことである。楠木正成や、中江藤樹や、太公望や、諸葛孔明などは、現代日本に生きていても、決して立候補しないだろう。供託金制度などいうことは、一流の君子人を、議会から除外することだと思う。
自分の経験によると、立候補することは、人にものを頼むことである。選挙区民に投票を頼み、知己に応援演説を頼み、各方面から恩をこうむることである。恩をこうむった結果は、何となく束縛されている感じだ。独立自尊を守る者にとっては潔しとしないことである。こういう点からも、現行の選挙制度は改正さるべきものだと思う。
とにかく、立候補した者の中から選挙しろということが無理である。これでは、広く人材を求めることなど、不可能である。国民はその投票の自由を、最初から限定されているのである。
今までも幾度も書いたが、一国の文化に対し、文学が重要であるか美術が重要であるかなどは、今さら問題ではない。が、日本の官僚や政治家は、彼らの骨董趣味のために、美術や美術家を尊重することは知っているのである。美術家は、今までも国家的に十分優遇されているのだ。新しい勲章の制定を機会に、こうした不公平が訂正されるのかと思っていたが、やはり同じことであった。文学者が、わが国において、国家から正当に認識されることは、当分のうちは絶望であろう。
改造社が、「新万葉集」というのを編集するそうである。歌の盛んなことは、万葉集時代を除けば、まず現代であろうから、こうした企ても、意義のあることである。ただ、選者たちが、情実因縁にとらわれず、厳選するかどうかが、この企ての文学的成敗の分かれるところであろう。
人の道教が弾圧された。教祖の問題や、教義のいかがわしい点はとにかく、信者たちは、比較的真面目な人が多く、皆ある程度の安心立命を得て、生業に励んでいたようだ。現代において、この程度の安心立命を得ることさえ、はなはだ難しいのである。昔は、新宗教が弾圧されても、統一のある政府ではないから、辺境の土地では禁令も行き届かず、そこで再興の芽を吹くこともあったが、現代ではそういうことも不可能である。仏教やキリスト教はいわば異国の教えである。宗教だけは、国産のものは、だめらしい。
(十二年六月)
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