ひいき目で見るわけでもないが、近衛内閣の政治は、従来の内閣に比し、大衆的であり、文化的であり、合理的である。教養から来る頭のよさが、いろいろな点に現れている。予算編成などでは、従来の内閣と大差ないとしても、日常の生活が明朗であるだけでも、国民としては有難いことである。北支事変突発に際しても、我々雑誌関係者にまで懇談するあたりは、従来の内閣などに比して、はなはだ進歩的であると思う。
芸術院の創立は、かねての僕の主張がいれられたものであるから、僕は欣然として参加した。参加した上で、芸術院が文芸のためになるよう努力するつもりである。入会を謝絶する理由などは、僕には考えられなかった。これが年金でも付いているのなら、謝絶栄(ば)えもするだろうけれど。ただ、名義だけのもので、国家からの単なる挨拶である。上司小剣氏が「文芸」で、「ああいう肩書で職業上の利益を得るのは美術家ばかりで」と、いっているのは至言である。
山本有三が、思想上の理由で人選にもれたという噂が真実ならおかしいと思う。山本は現に内務省の著作権審議会の会員である。国家機関の一方に入れて、一方に入れないなどおかしいと思う。第一、山本の思想が、不健全であるなどいうことは、おかしいと思う。彼は健全すぎるくらい健全で、何よりも良心的であると思う。
僕は、市会議員になった時は、祝品や祝辞が殺到した。芸術院の会員になった時は、森律子さんと市川猿之助氏ほか二、三の人が、祝辞を寄せてくれただけである。僕は作家として、市会議員になったのよりも、芸術院の会員になった方が、自然でもあるし、十倍くらい嬉しいと思っているのであるが、誰も祝ってくれなかったのははなはだ遺憾であった。それは、芸術院というものがあまり権威がないためかもしれないが、選挙などいうものが、たとえ市会議員にしろ華やかなためかも知れない。
市会議員になってまだ三力月になったばかりだが、すっかり後悔している。市政革新などということも決して生やさしいことではないということがわかった。市会などいうものは、想像以上に奇怪な存在であった。まだ、僕には何にもわかっていないが、第一、開会時間が怪奇を極めているのである。初めての市会は中山競馬の日で、開会午後二時ということであった。僕は競馬に行きたかったが、選挙民に申し訳ないと思って定刻に出席した。ところが、四時が来ても五時が来ても、開会しないのである。やっと始まったのが七時半である。その次の日は、四時という定刻が、九時になった。その次の日は、四時の定刻が、夜の十一時四十分になり、開会すると、たった五分間で閉会である。帝人事件の被告が、予審廷で一日中呼び出しを待たされる苦痛を訴えていたが、四時に行って、十一時まで待たされることは、我々時間によって行動している文化人の到底堪ゆるところではない。もっとも、こういう弊風打開に猛進することが、市政革新の第一かも知れないが、僕はそんな元気はない。もっとも、市会というものは、今のところ、月一、二回しかないのだから、辛抱できるが、開会がもっと頻繁になると、ばかばかしくなって到底辛抱ができないだろうと思う。なぜ、そんなに開会が遅れるかというと、その間に多数党の幹部連中が集まって、内交渉下相談をやっているらしいのである。だから、本当の市会が開かれた時には、もうすべてが決定して、ただ手続だけが残っているのである。元市会議員であった岸辺福雄氏が「善良なる市会議員になるのには時間の観念を無くさなければならぬ」といっていたが、全くその通りである。
(十二年八月)
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