話の屑籠・昭和十三年

日本が過去のあらゆる難局を巧みに切りぬけたように、今度の支那事変も、最初憂慮されたような悪事は起らず、所期の通り進展するのではないかと思われて来た。ただ、今後の中支、北支の経営に人材がないことが、大きい悩みであろう。せめて、児玉源太郎と後藤新平のような、名コンビがほしいものである。が、現代の政治家の中には、後藤さん程度の、頭のよい、思い付きの豊富な人もいないようである。


帝人事件は、議会でもっと徹底的に結末をつけてほしかった。今村力三郎氏の「帝人事件弁論」などを読むと、そしてあれがことごとく真実だとすると、帝人事件なるものは、あまりにひどすぎるからである。帝人事件の被告だけが、大逆事件の被告並みに、革手錠を入れられた理由なども、我々ははっきり知っておきたいのである。


東京市の日比谷図書館の閉鎖が問題になった。しかし、僕の学生時代、図書館通いの経験によると、(上野、大橋、日比谷とも各々百回以上は通っている)東京の市民などは、ほとんど図書館へは来ないようだ。図書館へ来るのは受験生だけである。市民の図書館とはいえ、職業を持っている人などは、めったに来ないのだ。たいていは受験生が勉強をしに来るのだ。蔵書を借り出すよりも、勉強の場所だった。近頃、医師の試験その他も無くなったので、いくらか情勢も違っているのだろうが、やはり勉強場所たるに変りはないだろう。だから、東京の図書館は、蔵書よりも、閲覧所が必要なのだ。そこが、学生の勉強場になるわけだ。だから、位置は郊外でもよいし、蔵書は参考書だけでよく、明るく気持ちのよい閲覧室を広く取っておけばよいと思う。つまり独学図書館が必要だと思う。そこに、指導員を五、六人おくと理想的である。つまり蔵書閲覧の図書館は、上野だけでたくさんであり、外は独学生もしくは受験生の勉強図書館にすべきだと思う。


よく新聞で、図書館でよく読まれる本の統計が出ている。図書館でよく読まれる本と、店頭でよく売れる本とは、必ずしも一致しないのである。図書館へ行く連中は、概して本を買う連中ではないからである。


海外版は、決して満足すべき出来栄えではなかったが、しかしこちらの気持だけは、汲んでもらえたと思う。ただ読者から投書のあったのはローマ字問題である。これは、日本内地を目的とするなら簡単だが、外人を相手にすることを本位とする以上、なかなかむずかしいものである。たとえば、僕の名前なども今まで chi で、ほんのいくらかでも知られていたとしたら、急に ti としたら、たちまち別人ではないかと思われるかも知れないのだ。その点がなかなか思い切れないのだ。どうか、もう二、三カ月考えさせてもらいたい。


現代作家十二人に短篇を依頼して、米国の雑誌へ載せるという計画があるそうだが、そういうことは、どんな話になっているか知らないが、とうてい実現の可能性はないだろう。アメリカの小説と、日本の純文学小説とは、あまりに距離が遠すぎる。芸術的には、日本の方がずっと上だが、とにかく今の日本の小説は面白くないから、とうてい受け入れられないだろう。

(十三年五月)


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