内閣情報部の世話で、我々作家が従軍することになったのは、新聞紙上で御承知のことと思う。文芸家協会長たる目分に話があったとき、その人数は四、五人だと思った。激戦の中心たる漢口方面ヘ行くのだから、希望者が少ないのではないかと心配し、自分の懇意の人たちを説得して行ってもらうつもりで、頼みやすいような人だけに情報部へ集まってもらった。ところが十一、二人集まった連中のほとんどすべてが行くというのである。自分なども、最初は行くつもりではなかったが、情報部の話をきいているうちに、これほどうしても行かねばならぬと思い、従軍を決心したのである。人数も、二十人くらいまでいいというのである。しかも、明日までに決めてくれというのであった。短兵急であるから、一人一人交渉するわけにはいかないし、二十四、五人も交渉すれば、半分は行ってくれるだろうと思い速達を出した。すると二、三人を除き、皆行くというのであった。交渉した人に全部行ってもらえなかったのは、そのためである。とにかく話があってから、中一日置いて、人選が決ったわけで、人選についても疎漏があったが、やむを得ないと思っている。
もっとも二十二人の中には、他の計画から合流した人が二、三人ある。僕は、その人が従軍記を書いた場合、どこの雑誌でも、欣んでのせるということを念頭においた。我々作家は結局読者の代理として行くようなものだから、読者の多い作家が、それだけ優先権があるのではないかと思った。もっとも、老大家ばかりでは第一線を馳駆する人がないと困ると思ったので、年少気鋭、身体強健な人をも加えた。自分は、顔触れとして、相当成功していると思う。現文壇の縮図として、立派だと思う。これが、気に入らぬといえば、それは文壇ぎらいの人であろう。また、選考があまりに完璧であったら、行かない人はかえって困りやしないかと思う。
大衆作家が多いが、結局、観戦の結果が直接作品に現れるのは、大衆作家である。純文学の作家が戦争の小説を書くためには、一月や二月の従軍ではなにもならぬと思う。純文学の戦争小説は、火野君の例もある通り、結局、第一線将士の中の文学的素質のある人から起るのではないかと思う。結局いくら第一線に近づいても、戦争を見たのでは、戦争小説は書けないのではないかと思う。戦争をするのと見るのとは画然たる相違があると思う。
僕個人のことをいえば、僕は心臓に何の自信もない。愛宕山だって、楽には上れない。僕は軍艦に乗せてもらえれば行くといったのである。軍艦でなら、どんな所へでも行くつもりだ。胃腸は、割合丈夫だし、日本にいても、伝染病に対する用心を欠かさないのだから、コレラやチフスになることは、絶対にないと思う。正面から弾が当ることもまずないだろうが、戦地では突発事件が多いだろうから、相当な危険は覚悟しているわけだ。
しかし、僕としては、平素から国家が文学を認めないことに不平不満をもらしていた手前、今度のように大々的に認めてくれた時、しかも僕を中心に話を進めてくれたのだから、自分の健康や安危や都合などは、一切介意(かま)ってはいられず、率先して、行くことを決心したのである。
(十三年十月)
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