南京は、ずいぶん戦禍を被っている。しかし、武官室に使っている孔祥煕の官邸などはすっかり原状のままだ。しかし、日本でいえば六、七万円の建物で、たいした豪壮なものではない。
目抜きの通りは、たいてい焼けている。十に二、三しか残っていない。夜は真っ暗だ。国民政府の建物も郊外にちらほら存在しているが、たいして立派でもない。蒋介石は、日本と事を構える前に、まず内治に専心すべきだったと思わせる。
中山陵は割合立派だが、コンクリート建てのもので、美術的なものではない。しかし、その付近は高燥で、ちょっと軽井沢を思わせ、雉子が自動車道路の二、三間そばをちょこちょこ走っていた。すぐそばに明孝陵がある。写真などによくある動物の像のそばに、支那兵らしい骸骨がまだ残っていた。
南京からは、駆逐艦に乗った。最新式の駆逐艦で、溯江作戦に用いるのは惜しいとのことであった。艦内の設備は良く、食事なども結構であった。新鮮な漬物があり、僕の好きな五目めしなどの御馳走があった。
南京出発、その日は蕪湖に泊り、翌日蕪湖を出て、一時間半ばかりしてから、向って左の岸にある敗残兵を、機関銃および主砲で攻撃した。敵は応戦しなかったが、艦砲発射のショックが、心臓の弱い僕には、かなりこたえた。
その夜は、太子磯に泊る。ここは、敗残兵が江上のわが艦船を攻撃するので、それを制圧するために、陸軍が上陸しているところだ。駆逐艦が陸軍に協力するために、二隻停泊していた。翌日、出航しながら陸岸を見ると、敵兵が塹壕の中からときどき首を出していた。今度は安慶に泊まるはずだ。
九江より上流は、機雷の危険が多く、艦長から「あなたは、よく事情を知らないで来られたのだろう」といわれた。艦長は、七、八年前、別府で、久米正雄、佐佐木茂索などと会飲したことのある成富少佐である。海軍の待遇はすこぶるよく、我々は恐縮するばかりである。
現地に来てみると、いかに戦争が大規模に行われているかがわかる。揚子江上における大小幾多の艦船も、数えるに暇がないくらいだ。あるところに、鰹船くらいの船が無数に停泊していた。
九江の町は、兵隊さんばかりだ。廬山の登り口の蓮花洞というところへ行ってみた。廬山には、敵の敗残兵が五千ないし一万くらいいるらしいが、ほとんど反撃してこないとのことである。わが軍は、哨兵だけをおいてある。この哨兵の本部を訪ねたら、そこに僕の家の近所から来ている兵隊さんがおり、その兵隊さんの子供の写真を見ると、僕の家の門を背景として写してあったので、懐かしかった。
上陸して会う陸軍の人たちからも、あべこべに「御苦労です」と挨拶され、はなはだ恐縮した。また、僕の顔を知っている兵隊さんたちからは、写真をうつされたり、サインを求められた。南京の街で買い物に行ったら、兵隊さんからサインを盛んに求められて、買い物ができなかった。
駆逐艦の上で、講演した。「武士道について」というので、一度ラジオでやったことのある講演だ。折から、千メートルくらい上流に仮泊している駆逐艦は、さかんに江岸の敵を射撃していた。(もっとも僕は講演に夢中になっていたので、砲声は耳に入らなかったが)。東宝映画の金丸氏の話では、「士官たちの中には、三十年来の感激だといっていた人もある」とのことで、出来もよかったらしい。僕としては一世一代の講演かも知れぬ。
前線の砲艦に乗ることは、東京で想像していたよりも、ずーっと危険であるらしい。僕としては、そんな危険よりも、爆弾や砲声で、僕の弱い心臓がショックを受けやしないかと、その方が心配である。
食物や住居についても、相当辛酸を嘗めるつもりでいたが、これは海軍の絶大なる好意で、ちっとも不自由をしなかった。この原稿を書いている部屋なども、九江第一の部屋で、蒋介石が泊ったかも知れぬといわれており、艦隊司令長官が九江にでも来られる場合は、居室に当てられるのではないかと思われる部屋だ。
海軍の将兵は、みんな感じがよかった。我々文士に反感を持っている人など、一人もなかった。水兵さんたちは、みんな純真で、おとなしい人ばかりだった。各地の飛行基地を訪問したが、どこでも歓待され、慰問しに行ったのか、慰問されに行ったのかわからなかった。飛行将校たちは、みんな快活で、毎日生死の間に出入りしている人とは、思えないくらいだ。
いよいよ明日から溯江作戦の第一線に参加するわけだが、海軍には第一線があって、第二線がないことが、ますますはっきりしてきた。相当の覚悟をしなければならない。もっとも、この記事が雑誌に出るときは、もう日本へ帰っているかも知れないが、しかし、もしかすると死んでいるかも知れない……とにかく、戦争の味は、満喫できるわけだ。(二十六日九江にて)
無事に帰って来た。我々は、海軍で作ってくれたプログラム通り、行動したのである。最前線に行動する軍艦に、十日近く乗っていたことは、我々にとって貴重な経験であった。毎日、前方で二、三十の機雷が発見され爆破された。が、それよりも我々の乗っている軍艦のそばを、いつの間にか流れ過ぎた浮遊機雷が、下流の方で処分される爆音がときどき聞えるのが、気持ちが悪かった。
海軍の好遇は、一生忘れられないくらいであった。海軍軍人の人間としての立派さに、一番感心した。わずか九日の在艦であったが、退艦するときは、惜別の情に堪えないものがあった。
舷門に並びてわれらを送る顔の一つ一つに名残惜しまる
皆、いい人ばかりであった。士官も水兵諸氏も。
海外版が、紙の統制のため、廃止のやむなきに至ったことは、残念千万である。しかし、現在の部数を維持するためには、海外版を廃止する外はなくなったのである。せっかく海外からの反響も盛んになった今、廃止することは、残念であるが、仕方がない。(十三日東京にて)
(十三年十一月)
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