この前、従軍から帰って以来、再び支那へ行こうなどとは夢にも考えていなかったが、世の中のことは分からないもので、再度渡支、上海、南京、武漢の地を見て来た。飛行機も海上を飛んでいる時など、ちっとも怖くはないが、中支の山岳の上を、四、五十分もつづけて飛んでいるときは、何となく気味がわるい。落ちて死ぬのはいいが、不時着して敗残兵などに捕まったりすると、たまらないと思うからである。
上海までの飛行機には、エアガールがいて、お茶などをサービスしてくれる。エアガールが乗っていることは、飛行機の安全感を常に示しているようで、いいことだと思った。颯爽たる少女たちであった。
上海は、去年の十月とほとんど変っていなかったが、南京はたいへんよくなっていた。支那人もずっと増えたし、街には街灯が点ぜられていたし、復興の気分が、和(なごや)かに感ぜられた。主な街路の家は、まだ商売を始めないまでも、大体片づけられたようである。
漢口も、町は八分通り残っている。バンドに面した外人の町の建物などは、完全に残っている。ここも、支那人は、かなり帰っているようだった。武昌は、漢口よりは荒れているが、大体片づいていた。折柄、揚子江は減水期で、江岸は数丈も現れ、その上に聳(そび)えている武漢の町々は、南国の都会のように、明るく感ぜられた。もっとも、九州などよりは、ずっと南にあるわけだ。
支那へ行く前、寒いだろうといわれた。自分は寒いはずはないと思っていたが、それでも防寒の用意は少ししていた。が、支那へ行ってみると、一月下旬だのに、各地とも三月の初めぐらいの気候で、野外の風さえ、少しも寒くなかった。ところが、九州へ帰ってみると、雪が降っており、たちまち風邪をひきそうになってしまった。分かりきったことだが、支那といっても、寒帯と熱帯とに跨(またが)っているわけである。
武昌にある武漢大学の建物には、全く感心した。日本の大学が、いずれもお役所風のこちこちした設計なのに比べて、武漢大学は、風光絶佳の小丘の上に立っていて、白亜に青い瓦の気品の高い堂々たる校舎が、谷を隔てて、一群ずつ相対している。日本の兵隊さんが竜宮といっているのも、もっともだと思った。日本にたとえれば、比叡山を十分の一にしたくらいの高原の一角に立っているのだが、そこから見下す沙湖という湖水は、琵琶湖などよりも湖岸がずっと変化がある。そして、湖水に突き出ている長汀(ちょうてい)には、洋館などが散在している。場所といい建物といい、あんな外観美を備えた大学は、世界にもいくつもないだろう。
校内の屑の中に、英文学の試験の英文の答案があった。「印象批評を論ぜよ」といった問題らしい。英語は、日本の文科大学生よりもうまいかも知れぬと思った。学生間で出している同人雑誌なども、幾種もあった。講堂と講堂との間は、学生の寄宿舎になっているが、相当贅沢な学校らしかった。
武昌で、宝通祥寺というお寺を見た。禅宗で、五、六十人もの僧が、今もなお参禅しているとのことであった。我々に応接した和尚は、眼光威あって相当の高僧らしく思われたが、同行者が、僕が、日本知名の文学者だというと、字を書いてくれというから、僕は苦笑しながら、字を書くと、今度は相手が返礼に字を書いてくれた。すぐには、読めなかったが、宿へ帰って考えてみると、「無風流の僧が参禅していると、客が閑門を開けて訪ねて来た。童子が茶を運んで来て、客が僧と語るを得た」という意味らしいので、腹が立った。戦禍に際して、大獅子吼(こう)した禅僧は、支那にも日本にも、その例があると思うと、もう少し何とか気の利いたことが書けそうだと思った。支那の禅僧などは、低俗化してしまっているのだろう。
旅行中「支那事変和歌集」というのを読んだが、なかなかよかった。ことに、戦場にある父が、愛子を思う歌は、あわれ深いものがあった。
四月一日
別れ来て既に六月(むつき)よ待ちに待ちし子が入学の日となりにけり などは、絶唱だと思った。
芥川賞、直木賞は、別項の通り決った。候補作品中、北原武夫君の「妻」は、なかなかよく書けているが、こういう体験的情痴の世界は、いちばん書きやすいので、授賞する気になれない。吉川江子さんの「お帳場日誌」は、周囲を描いている手腕に、非凡なところがあり、よっぽど、この人を選びたいとさえ思ったが、たった一作しか発表していないので、もう一つ二つ、作品を見てからでも遅くないと思った。中里恒子さんのものは、題材が珍しいのと、少したどたどしいところもあるが、文章に気品と落ち着きがあり、死んで行く外国婦人が、弟子兼女中の菊代というあいのこに、自分の生命の後継者を見出すところなどに、作者の明るさも感じられるので、ある程度の不満もあったが、この人を推薦することにした。
直木賞の大池唯雄君は、手腕は相当だが、題目に鋭いものがなく、自分としてははなはだ不満であったが、最後の選考にやっと間に合ったので、今さら他の候補者を物色するわけにも行かず、ただ今年からもっと無名新進の人を採ろうという建前に賛成する意味で、不満ながら黙認したのである。あの程度の人なら「サンデー毎日」や「週刊朝日」の懸賞小説の作家の中にも、いくらもいるのじゃないかと思う。
直木賞も、今年から、もっと新進無名の作家を物色することにしたので、委員会直属のリーダーを設けて、あらゆる作品に目を通させることにした。
昨年制定した菊池賞の授賞は、来月第一回をやるはずだが、規定は「少なくとも十五年以上、創作的精進を続けている老大家のうち、昨年度に相当の作品を発表したる人に進呈する」ことにしたいと思っている。選考委員は、比較的若い作家と評論家とに委嘱し、芥川賞の委員とは全然別な顔触れにしたい。僕も、むろんはいらない。
新潮賞の第二部が、坪田譲治君に授与されたが、僕は、出席していたら、角田喜久雄君を推薦するつもりでいた。
(十四年三月)
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