欧州第一次大戦が勃発したのは、僕たちの青年時代であるだけに、その印象は今もなお、まざまざと残っている。その当時は、ノーマン・エジェルの著書などによって示唆されたるごとく、世界的大戦の発生は、不可能事視されていただけに、そのショックは大きかった。全世界に与えたショックは、とうてい今次の第二次大戦の比ではなかった。また勃発当時の華々しさも、今次の比ではなかった。しかし、第一次の大戦であんなにも叩きつけられたドイツが、わずか二十五年の間に、第一次大戦の訂正戦を敢行するほど回復することは、当時誰人も予想しなかっただろう。ドイツの回復を牽制するために設けられたポーランド国が、今次の大戦の誘因になっていることなども、考えさせられることである。敗戦国ドイツにつけたいろいろなハンディキャップが、かえってドイツを刺激して、その再興を促進したようにさえみえる。しかし、ハンディキャッブをつけなかったら、ドイツはもっと早く回復したかどうか。敗戦のために受けたハンディキャップや多くの教訓が、かえってより強力なドイツを造り出したようにさえ考えられる。
日本は、欧州の情勢に介入せず、一路支那事変の処理に邁進するというが、その事変処理に当っても、欧州大戦の教訓に鑑みて、第二次の支那事変などの起らぬように、確固たる新秩序を建設することが、必要である。事変の処理に焦って、少しでも無理な手を打つことは、近衛さんのいつかの演説とは反対に、二十年、三十年の後に、第二次の支那事変を誘起して、児孫にさらに大いなる負担をかけることになるのではないか。ここで早急にして不十分なる処理をやるよりか、百尺竿頭何歩を進めてもいいから、徹底的に新秩序の建設に当ってもらいたいと思う。
泉鏡花さんが死んだ。泉さんは、永久に芸術派であった。自分は意識していたかどうか、知らないが。どんな主義に対しても、芸術派は対抗するものだ。そして、永遠に存在するものだ。それが、芸術である限りは−−泉さんが四十年間、文壇の諸主義、諸潮流に拮抗して、作家としての存在を続けたゆえんである。
先日、明治六、七、八年頃の新聞編集史を読んでいたら、いろいろ面白いことがあった。琉球が、日本領と決定したのは、明治八年だし、樺太と千島とを交換したのも同年だ。もっとも、この樺太と千島との交換には、民間でも憤慨した人があり、新橋駅の便所に、過激な檄文(げきぶん)が、はりつけられてあった。この交換交渉も、民間には秘密で行われ、まず外字新聞に、その報が伝わったので、日本の民間では、政府が国民に秘して外交交渉を行う非を鳴らしている。新橋駅といえば、八年にはすでに東京大阪間の汽車があり、日本では官民とも、質素で一、二等車に乗らぬので、二等車の車両を減らすという記事が出ている。それよりも驚くのは八年には、ガス灯が灯されたので、美しい美しいと市民が欣んでいる。京橋の大黒屋というしゃも屋では、お座敷ヘガスを引いて、鍋焼きをやることになったが、その費用が四カ所で八十円だと出ている。もっとも、その挿絵には、ちょんまげを結った書生が、鳥鍋をつついているところが出ている。オイルランブ即ち洋灯も、この頃から盛んに行われたらしい。また、当時銀座は、まだ盛んにならず、帝都第一の繁華街は、万世橋畔であった。現在の万世橋を考えると、夢のようである。それよりも面白いのは、明治六、七年頃、上野広小路、両国、万世橋付近に、夏になると麦湯店が盛んに開かれ、麦湯少女が、客にサービスした。吹矢店で得た賞品をを袂にして、その少女たちを張りに行く青年が多かったというから、麦湯店は、まさに現在の喫茶店の前身である。こんな記事を読むと、現在の非常時局に、コーヒー、紅茶などよりも、麦湯時代に還元することも一策ではないかと考えられる。また山県卿が各鎮台の巡査に回ったというのは、現在の検閲ということであろうが、用語の変遷もはなはだ面白い。また、湯島切通しに追剥ぎが出た記事がある。女の悲鳴を聞いた車夫が、てっきり追剥ぎだなと、思っていると、果して人相のわるい男が、荷物を持って現れた。車夫が「参りましょう」というと、すぐ車に乗ったので、幌をかけて出られぬようにし、そのまま警察へ引き込んだというから、当時は追剥ぎもよほど呑気であったらしい。また、狸が犬と喧嘩したとか、日本橋の商家の縁下で腹鼓を打つとかの記事が出ている。もっとも、その新聞記事には、とうてい理解できぬ話だとしゃれているから、新聞としては迷信打破の意味で取り扱っているのだろう。現代からは、夢想できぬようなおかしなことと、また六十年後の今もやっぱり同じかと思わせることとが、錯綜(さくそう)している点がはなはだ面白い。
(十四年十月)
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