日本における現代の悩みは、首相級の人物の種切れであろう。明治時代から大正初期の首相は、みな相当の人物だと思ったのは、自分たちが、青少年であっただけではないらしい。首相になる人々は、何といっても国民の声望というものがあってしかるべきだと思う。何となく国民に人気があるということは、首相としての一つの資格であろう。首相になるまでは一部の人しか知らなかったような人は、首相になってから新聞がいくら書き立てても、国民の信頼が、急に増すわけではない。
天下の改治を取らんとする志がある人は、平素から心掛けて、準備をすることが必要だし、国民ももっと人物というものを愛惜し、尊重すべきだと思う。相当の人物が十分な理由もなしに刺客のために倒れるのは国民に人物尊重の観念がないためだと思う。
先日も、U氏が、北海道で刺客に狙われたという記事が出ていた。
明治特代から、暗殺行為が国家にどんな大害を及ぼしたか考えるだけでも、慄然たるものがある。津田三蔵、小山六之助のごときは、宸襟(しんきん)をさえ悩まし奉った。最近に暗殺された人々のことを考えても、この非常時局に生きていてくれたら、国民はどんなに頼もしく思ったか分からないと思う。
今度の文展は、はなはだしく評判が悪かった。しかし、美術だけを国家が保護するなどということがおかしいのである。
美術だけが、国家の庇護を受けたのは、明治の政治家たちの書画骨董趣味のためであって、美術はほかの芸術に比べて一番非大衆的なものである。
どんな名画でも、その実物を鑑賞し得るものは、国民の一部に過ぎない。
国家的見地からいえば、文芸とか演劇とか音楽などをこそ、庇護奨励すべきである。そういう意味で、文展の評判が悪くなって、自然に廃止になった方が公平だと思っている。
こういう事変下における精神運動などには、宗教家などが盛んに活躍すべきものだと思っていたが、現在の宗教家には、すでにそれだけの実力も声望もないらしい。先日も都下で、僧侶が托鉢(たくはつ)して、献金を集めに行ったことがあるが、その成績はどうであったか知らないが、その当時の新聞投書欄に、托鉢などをして、他人の献金を勧誘する暇があるのなら、なぜ自分で労働して、その所得を献金しないかという非難が出ていた。
まるで、宗教家の精神力が信ぜられないわけだ。これでは、宗教家の立つ瀬はないわけだ。仏教の衰えたるはなはだしいかなと思った。
といって、日本人に宗教心がないわけではない。いかがわしき疑似宗教が、すばらしき流行を示したことさえあるのだ。
仏教家が、時世に対応する新しい教説を考え出すだけの努力が足りないからである。新しい宗門である一向宗さえ、もう四、五百年も古くなっているのだ。これでは、新時代に相応するわけはない。
(十四年十二月)
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