大衆文芸は、維新時代を書き荒してしまった。だから、時代を少し新しくして、西南戦争、自由党時代と進んでいってもいいのだが、遺憾ながら、廃刀令が出ている後は、どうにも仕方がないらしい。といって、江戸時代を遡ると、だんだん近代性がなくなって、ヨタが飛ばせなくなるのである。戦国時代を遡るともうだめである。
長谷川伸の「戸並長八郎」は、紅蝙蝠時代にはなんだが筆が堅くてよみづらかったが、最後になるほど、暢達になって、余裕しゃくしゃくと書いていた。もっとも、僕はたまに一、二回しかよんでいないが。
この夏、四国の松山に講演に行った。瀬戸内海を飛行機で飛んだが、たいてい百メートルぐらいの高さで飛ぶので、船になど乗っているよりは、気持ちがよかった。須磨明石は、海水浴をしている人の十間ぐらい上を飛んだ。
同じとき、東海道で飛行機の上から富士山を見たが、麓と頂上とに薄雲がかかり、中腹は藍色の山肌を表していたが、その色彩、山形の美しさに、恍惚とするばかりであった。自分は、自然美などは、感心しない方であるが、今度見た富士山くらい美しいものはなかった。飛行機の上からでなければ、ああいう美しさは見られないのだろう。今に、飛行機旅行が普及すれば、日本の風景は、一変されるだろう。
帰りにも、松山から大阪に飛行機て来て、すぐまた東京へ飛び帰るつもりでいたが、折から甲子園の優勝戦なので、野球を見ることにした。野球終わって、大阪駅に行き、九月号の「文藝春秋」を買う。中途、妻子の行っている沼津に寄る気になり、売店で時間表を買ったが、買ってすぐ気がついたのは、「文藝春秋」に時間表が載っていることである。灯台元暗しといおうか、迂闊千万のことであると思った。
五日くらい前のことなり。夜十二時頃家に帰らんとし、家とは十間とはなき坂道にかかりしとき、向こうより巡査来り、「どこへ行く」と、誰何す。余は鳥打帽を被りおり、人相あまりよき方にはあらざる故、誰何されても仕方なけれども、近所の交番の巡査各位へは、できるだけ敬意を表しおり、余を知らざる人はなきはずなるゆえ、自宅に五十歩とはなき所にて誰何さるること不思議なる故、「君はどこの交番なるか」と問いしに「田端なり」という。田端より、不案内の雑司ケ谷に来り、そこの住民を誰何すること、心得がたしと思いし故、余はだまって行き過ぎしに二、三間従い来りて、「どこへ行くか」と、追求する故、「すぐそこなり」といいしに、「すぐそこではいかぬ」という。余は、懐中を探りしに、愛読者より来りしハガキありし故、表書きを見せしに、「ああそうですか」といって急に踵を返し去らんとせし故、「ハガキを見せたからといって、にせ者かも知れぬ故、一緒に僕の家まで来て安心せられよ」といいしに、「それには及ばぬ」と再三いいしも、余は強いて我が門前まで連れ来り、声高きいい争いに、何事ならんと玄関へ現れし妻に、「お前は俺の女房だろう」といいしに、妻驚きながら、「さようでございます。どうも御苦労さまでございます」といった。
余は、今までに巡査に誰何されしこと学生時代に二度、二、三年前にも一度あり。やはりどこか人相が悪きためならん。しかれども、まだ十二時頃、自宅の門前で誰何されては、立つ瀬がないことであるから、前記のような態度に出たのである。
(六年十月)
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