土肥慶蔵博士が死んだ。自分の男の子は、毎年夏になると、おできができるので、数年来博士の治療を受けていた。そんな関係で、自分は博士を知っていた。「文藝春秋」の座談会にも一度出席してくれて、医学というものを通俗的に話してくれたことがある。博士は、もの静かで無口で、しかもどことなく温情のあった人のように思う。いつか、熱海から帰るとき、博士と同じ汽車に乗り合わした。自分はこちらの隅で、博士はずうっと向こうの隅に乗っておられた。自分は、博士の姿を見たので、挨拶に行った。すると、それから一時間ばかり経って、汽車が横浜に着く頃、博士は向こうの端から、自分のところへ来られて、四、五分話してゆかれた。おそらく、自分の挨拶に対する答礼のつもりであったのだろう。自分は、恐縮すると共に、たいへんいい感じを受けた。
「文藝春秋」も、来年は十周年である。創刊号は、三千部刷って、費用は百二、三十円だった。創刊号より第三号までは、一部も返品がなかった。第四号から一万部刷った。
「講談倶楽部」の十二月号に僕の写真が載っているが、それに「菊池氏の質朴なお住居がある」と書いてある。まことに当然ではあるが、こういう風に書いてくれたのは初めてである。自分の住居は、家賃にすれば、百円ぐらいの家である。それが、一時金山御殿などといわれたのだから、ばかな話である。しかも、その当時より手入れをしたので、よっぽど立派になっているのだ。それでいて、「質朴な住居」に違いないのである。もっとも僕は、住宅や調度類に何の趣味もないので、生活程度以下の汚い家に住んでいるわけである。
「東京朝日」に、ラジオ放送の著作権問題で、放送局と文藝春秋社とが、問題を起したと出ていたが、問題を起したのは新聞紙だけであって、「野球放送」については、この前掲載するとき、矢部部長の了解を得、松内さんには謝礼をしている。今度は、二回目なのだし、問題の起りようがないではないが。ラジオ放送に著作権があるかないか、あればそれが放送局にあるのか、アナウンサーにあるのか、そんなことは、こちらの知ったことではない。僕のところヘ、放送局から電話一つ、手紙一つ来ていないし、たまたま外の用事で来た放送局の人は(新聞には、あんなことが出ていますが、どうぞお気にかけないように)と、いっているのに、しかも新聞には同じことが、四回も出るのである。問題が起きているのではなく、勝手に起しているのである。もっとも、新聞記事などは、十中の過半まではそうだが。
朝食をしていると、小学校二年の男の子が、そばで読本の予習を始めた。それをきいていると、(おじいさんが、この柿の木をついでいらっしゃる時、下男の太七がわらいながら、「ごいんきょさま、そのお年でつぎ木をなさるのですか」と、いったそうです。その時、おじいさんは、「孫へのこしてやるのさ」と、おっしゃったということです)と読んでいる。
子孫のために、つぎ木をする心がけを教えたのだろうが、(どうせ、先が短いのにつぎ木をしてどうするのか)というような失礼千万なことを、しかも笑いながらいう下男が、世の中におるだろうか。人の生死については、相手が老人であればあるほど、口にしないのが、礼儀である。つぎ木の教訓?を書こうとして、こういう非礼を無批判に書いてある文部省の教科書のでたらめにおどろいた。なお、男の子は、二、三ページ進んでいって、「麦まき」という歌をよんていたが、(風にふかれてなま土ふんで)とある。なま土という言葉も、生硬きわまる言薬である。しかも、おしまいに(やっとすんだと見上げる空に、あすも天気か夕日が赤い)だって、夕日は正午の太陽のように中空にかかっているものではないだろう。ことに、精励な農夫の子が、晩(おそ)くまで働いているんだもの、夕日は山の端にかかっているか沈んでいるかだ。せめて夕ばえとてもすれば、いくらか道理にかなっている。子供が、ちょっと読んでいるうちに、こんなばかなところが、二カ所もあるとすると、文部省の教科書なるものが、どんなにヨタモノであるかが分かる。つまらない古手の役人にやらせるから、こんな非常識なものができる。今度改正になるそうだが、僕たちの所へ持ってくれば、こんなところだけでも注意してあげられると思う。
(六年十二月)
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