話の屑籠・昭和七年

「文藝春秋」創刊以来十年の月日は、短くまた長く感ぜられる。最初は趣味で始めたことが、今ではビジネスになり、原稿も最初は書きたいことだけを書くことにしておいたのが、今では毎月ぜひ書かねばならなくなったし、社員四、五十名の生活を負担しているから、経営の苦心もしなければならず、社員に仕事を与えるために始める新雑誌がうまくいかなかったり、創刊当時に比べては煩わしいことが多くなった。


昭和二年の春、麹町有島邸で読者を招待して、園遊会をやったが、あの頃は僕の個人経営であったし、いちばん愉快であった。その後は、景気がよくなると、むやみに華美に手をひろげて、苦しくなると整理し、整理するとまた景気がよくなって、手をひろげて放漫になるといったようなことをくり返している。


「文藝春秋」の功績は、出版物の市価を安くしたことで、雑誌の低廉はひいては円本の発行となっており、その点で大いに認めてくれてもいい。


「文藝春秋」の創刊号を所持されている方が二百名もあるのに驚いた。色紙を書く約束をした僕は、閉口している。せめて五十ぐらいだと思っていた。試みに、この十周年記念号も保存しておいていただきたい。今度、二十周年記念号を出すときには、また生きていれば色紙でも書く。しかし、おそらく死んでいるだろう。


自分は、七、八年前から、自分の健康状態から、五十で死ぬつもりで生活して来たが、この頃は心配していた心臓もよくなったので、五十以上に生きのびるかも知れない。しかし、五十ぐらいで死ねばいいと思っている。


この頃、府の社会局の草間氏の手から出たという、四谷第七尋常小学校旭分教場の生徒の綴り方を見て、いたく感動した。次に、その三、四を掲げるから、よんでいただきたい。

木村屋のパン 三年  玉川伊佐男

僕は学校でおひるにパンをたべます。そうすると、ジャミがくっつきます。僕はたこでもないのにすいつくのはどういうわけだろう。きっと木村屋のパンは生きているからうまいのにちがいないと思います。

お盆 三年 佐藤初江

今日はお盆で、家の仏様になにもあげないのでつまらないのです。どうかして何かあげようかと思っていますが、お金がないので何も買えないのです。私は今日学校でもつまらないとおもっています。

長い雨 四年女 今井淑子

私は一番つよくかんじたことを書きます。私は長い雨の中で一番困った時はおとといのことでありました。毎日の雨でしょうばいにいけなくなった時うちには一銭のお金もなくなってしまいました。その上お米がなくなってたべることができなくなってしまいました。

そしておとといの朝もごはんもたべずに学校へきてもしんぱいでたまりません。

そして家に帰っていってお母さんがお米があるようなかおをして私にかくしていました。私は知らないふりをしていました。

お昼のごはんもたべないで夕方になって来ました。タ方になったらお客さんが来ました、いろいろ話をしてから私は床の中で、首を出していました。すると私にお客はお金を二十銭くれました、私のうれしさは何ともいえなかったのです、すると律子(妹)にも二十銭くれました、私はすぐお父さんのさいふにいれておきました、律子は何もよく分かっていません、私が律子におまえそのお金をお父さんにやりなさいといいましたら、いやといいました。私は律子をだましていろいろなことをいうてそれでもいやだというから私もこまってしまいました、お父さんには一銭のお金もないのだといいましたらフンといってわきを見ました、ネーやらなければならないのだといいました、私はやったんだよといいました、すると律子が、ジャーやるといいましたので、まあーよかったとおもいました。そして夜中に御飯を買って来てたべました、私の長い雨の中で一番強くかんじたことはこれだけです。

お豆腐屋 五年 関口健

僕の家から三軒ばかり右の方にお豆腐屋があります。五月十五日からお豆腐が二銭さがりました。僕はお豆腐屋のぼうやんとよく遊びます。此の間の日曜にぼうやんと二人でちくおんきをかけてあそびました。

お豆腐やあぶらあげはやすくなったがわりに小さくなったと家の者がいっています。

僕とぼうやんとはけんかもするけどもすぐとけんかはよしてしまいます。

(四谷第七尋常小学校旭分教場)

新聞で欠食児童の記事を読むなどとは違って、ひどく感動したので、これらの児童たちのために、徴力をつくしたい気になった。こういうことも、個人的の関心がないとやれないが、こういう綴り方をかく子供のためだと思えば、相当なことはできる。

(七年一月)


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