話の屑籠・昭和七年

これは、先月号に書くつもりでいたのだが、二、三カ月前に、東京朝日の学芸欄に出た松岡譲氏の「ホラ信の功績」とかいう文章はたいへん面白かった。ドクィンシーのエッセイを読むような風格と味とがあって、珍しいものだった。


これも、先月号に書くはずのものだが、芝かどっかの小学生が、父の賭博を訴えて検拳させたとの話であるが、孔子様の言葉を引用するまでもなく、道徳的にいってもどうだろうかと思う。賭博などいうことは、道徳的にいってもそうたいした罪悪でないと思う。何も、人の物を取るのではなし、外国では公然と許されている所さえ多い。それに比べると、子供が親を告訴するなどということが、どれほど感じのわるいことであるか。子に訴えられた親の気持、その父子の長い将来の関係などを考えると、暗澹たる感じがする。小学校の教室で教える紙上の正義観から、そんな行動をしたのだとすれば、なげかわしいと思う。

これは、人聞きであるからわからないが、「チャンプ」とかいう映画では、子供が、富豪と結婚している実母が、引き取ろうとするのを拒んで、悪党の父親を慕って、その父子との間に、涙ぐましい父子愛の場面が展開されるということだが、その映画こそほんとうに人間の道ではないかと思う。


直木三十五氏が、先日ラジオで宮本武蔵をけなしつけた。自分は宮本武蔵の崇拝者として一言弁じておく。

いつの時代にも、偉大なる人間に対してはかげ口があるのであって、そのかげ口が、徳川時代に伝わり、それがまた直本君に伝わっているだけである。

武蔵は、一生のうちに、六十三人と真剣同様の仕合をして一度も負けたことがない。(その当時の一刀流の元祖伊東景久は、三十何回で武蔵の半分ぐらいである)しかし直木君は、それは強者を避け、弱い者ばかりとやったというのである。それも当時のかげ口であると思うが、しかし直木君が武蔵以上だという徳川時代の某々剣客の中に、弱い相手とでもいいから、五回でも十回でもいい、真剣同様の仕合をやった人がいるかというのである。武蔵時代の仕合は、名は仕合でも果し合いである。竹刀だけで叩き合った徳川時代の剣客などと強弱を比較しても、結局紙上論であって、実際六十三回実戦をして、一度も負けない武蔵が、日本の剣客中一番強味を発揮したといって少しも差し支えがないと思う。武蔵の剣名を知りながら向ってくるのだから、そんなに弱い奴ばかりであるはずはないのである。

荒木又右衛門などは、たった一度だけ実戦をやり、しかも敵の仲間か何かに一太刀切られたのが鞘に当ったため、やっと無事だったというだけでも、武蔵と同程度に剣名を馳せているのである。とにかく、真に剣を取っての強弱は、実戦の成績による外はないと思う。

その上武蔵が偉いのは剣ばかりでなく、人間としては日本古来の政治家、軍人、芸術家を、ひっくるめて、五指の中に、はいる人だと思っている。自分は武蔵の独行道十八カ条の中(我事において後侮をせず)という文句を常に借用しているが、僕が甘んじて借用するほどの文句を、外の誰がかいているというのであるか。

その上、武蔵は種々の余技に通じていたが、その絵に至っては、当時の巨匠と比肩して、少しも遜色がない。読売の名宝展で、光悦、宗達などの傑作と並べられて、独特の境地を持っているのである。武蔵がへッポコの剣術使いなら、その剣名よりも画名が伝わっているはずである。しかも、武蔵が絵をかくなどいうことを誰も知らないほど、その剣名は画名を圧しているのである。当時、いかに武蔵の剣名が一代を風靡していたかが分かると思う。

その上、剣客の強弱比較については、直木君の説も、聴かないことはないが、それと同時に高野、斎村といった斯道の大家の説も傾聴しなければならぬ。斎村五郎氏など、武蔵第一人者説について自分と全然同意見であった。


自分のロシア行きが、伝わっているが、向こうからの招待は十月十五日頃、ロシアヘ来いというのであるが、自分は用を片づける必要上、十月二十日頃でなければ、日本を出発できない。それでは、向こうで都合がわるいらしいから、結局行かないことになるのではないかと思っている。ちょっと行ってみたいのであるが、向こうのいう通りには行かれないのである。

(七年十月)


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