自分は、この頃小鳥を飼っている。最初、鳥屋の店頭で駒鳥を見て、その俊爽たる格好が気に入ったので、駒鳥、ルリ、相思鳥と三羽買った。飼い始めてから、二、三日すると駒鳥は快活に鳴き始めた。
ほがらかで元気のいい声である。鷹司信輔氏の本によると、ヒシギヒシギヒシギ、サイサイサイ、ヒョウヒョウと三通りに聞きなされていると書いてあるが、自分にはヒョウ、クワックワッ、チチ、ヒョウヒョウヒョウと四通りに聞かれる。ことに、ヒョウヒョウという声は、全身で叫んでいて、壮快である。つぶらな目に、胸から首の周りは茶褐色で、形もすこぶるスマートである。
ルリは、多分おおるりというのであろう。ウグイス、コマドリ、オオルリは日本の三名鳥といわれるそうであるが、瑠璃色にところどころ黒褐色を交えた支那の麗人を見るような美しい鳥で、目が少し飛び出ている。が、鳴き声は、駒鳥などには遠く及ばない。しかし、どっかおとなしく、おっとりしている。飼ってから三、四日目に、男の子がいたずらに籠の戸をあけたので、たちまち飛び去って庭の木に止まった。もう、だめだと思ったが、窮余の一策として餌料の袋虫というのを、指先につまんで、鳥の方にさしむけた。すると、彼は二間あまりの所を真一文字に自分の指頭を目ざして飛んで来て、あっという間に摘み去った。今度はたやすく取られないように、虫をしっかり摘んで鳥の方へ見せると、またたちまち飛んで来て啄もうとするところを、捕えたのである。それ以来、この鳥が急に好きになり、また一般の小鳥も好きになり、いろいろ飼ってみようという気になったのである。
相思鳥は、何だか人に馴れず、そわそわしていて嫌いだったが、二、三日経つと元気がいいのが、ひょっくり死んでしまった。何で死んだのか分からない。また紅雀とキンカ鳥を飼ってみたが、鳥が小さいせいか、人間を恐がりもしなければ馴れもせず、まるでこちらに無関心なような気がしたので、たちまち飽いて人にやってしまった。
それに次いで、ウグイス、ローラカナリヤを飼った。やっぱりウグイスはいい。勝太郎の「島の娘」のように叙情味たっぷりな啼き方をする。フフハーケキョと聞かれるが、最初声をふるわせて鳴き始めるところに、いい知れぬ哀傷がある。鳴鳥の女王たるまたむべなりである。これに比べると、ローラカナリヤは、何だか人工的で、自然味に乏しく、達者すぎる芸人のようで親しめない。
二、三度書いたことのある欠食児童の多い四谷第七小学校の旭町分教場から、卒業式にぜひ列席してくれというので行ってみた。行儀作法など、整然としていて、感心したが、卒業式の答弁に「私たちには、これが一生にたった一度の卒業式だろうと思います」と、あった。言何ぞそれ悲しきや。教育の機会均等などは逸早く実行されるべき社会政策の一つであるように思う。
先月米国からオレンジを贈ってくれた弓削亀之助君という人のことを紙上で書いたら、次のような手紙が来た。私信を無断で発表するのはわるいが、別に差し支えないことだと思うので、出させてもらう。小学校時代の旧友が、米国の中心で、頑張っているのは、はなはだ愉快である。書中、S・O・S云々の件は、断るまでもなく、同氏の杞憂である。むかしの同君のことは、はっきり覚えていないが、名前が弓削というので「道鏡」という仇名をつけていたのをぼんやり思い出す。
菊池さん私は五番丁の学校へ貴方と一緒に通った者です。今までに何度も手紙を書いて出そうと思いつつ思い直して破って捨てました。それは貴方と私の身柄があまり違うのと、もしアメゴロの私からの手紙を見ていやな気持ちをされてはと思って止めました。
文藝春秋三月号で私にお礼など恐縮です。その後の号に、親類縁者遠かくの地からのS・O・S云々とあったので、もしか私がお届け物を頼んだ人が貴方にそんなことをしたのがあったのじゃないかと思うと書かずにおられなくなって、手紙書くすべも知らない私が、とにかくお尋ねしようと思って書くことにしました。そんなことがありましたらお知らせ下さいませ。
米国にいる者を種に汚いトリックをするやつがあるのは今まで人ごとのように思って新聞でちょいちょい見たことがあります。それが自分にもあったのじゃないかと思うと、じっとしていられないような気持ちがします。私は文藝春秋の初めからの読者なんです。その愛読者から貴方に物を送るのは何の不思議もないことのように思って送っていたのでした。
貴方の半自叙伝にも子供の時の記憶は余りないと書かれてありましたが、私ども若木又八、牧野九平と私は五番丁の高等小学校は貴方と同じ級でありました。その三人が欧州からニューヨークヘやって来ました時、文だんに、菊池寛という名が出て来ました。私は菊池寛偉いもんになったなと二人にいいましたところ、二人とも菊池寛さんは中学校から師範学校へいったんだからその菊池さんは違う。師範学校へ行ったのを僕らは知っているといいましたが私はそれを知らないから、そうかそれでも珍しいことじゃ、珍しい名がよう同じようにあるなといってそのままになっておりましたが、私どうも貴方に違いないと思って、どれかの雑誌に貴方の写真でも出ないかと思ってさがしておりましたら、雑誌の名は忘れましたが博文館発行の小さい雑誌であったと思います。名士のお国自慢に貴方が屋島山の礼賛を書かれていたのを見て二人の所へ飛んで行き、そらどうだ菊池さんじゃないかと、つき付けたら、二人ともほんまになと自分らが一ぺんに偉い者になったような気持ちがしました。それから次第に大きな菊池さんになるのをかげながら私どもは喜んでおりました。
そして私どもは貴方の作品は何でも読みました。啓吉物語や道理やその他何でも、そして文藝春秋発行の雑誌なんでも。
貴方の所へお届けものを人に頼んでしたのは日本へ帰る人があった時、何か、おことづけはないかと一年に二回ずつ尋ねて来て依頼物を宛(あて)に、日本と米国を行ったり来たりするのを商売にしている人があったから以前カリフォルニアから頼んでお届けしたのです。
それも貴方のお内だけではありません。私が以前世話になった所も同じようにでした。貴所の所へは別な気持ちでしたが。
私は貴方の書かれたもの何でも、ひじょうなかんげきをもって読み、形んだ後何人にも読んでみいといって勧め、誰でも私のいうのを聞いて読んで得心します。それを見るのが嬉しうございます。もっとも近頃は歴史もんしか私は読みませんが。
私は今までお手紙を差上げませんでしたのは、貴方と、ごろつきの私とは余りにかけはなれておるし、ごろつきからの手紙や送りものに不快な気持ちを起こさしてはと思って御遠慮申し上げたのです。貴方の賭博の見本も本当に私は得心しました。いつも私は受け売りをしております。それでも貴方のごろつき観はどんなか知りませんからもし御迷惑をかけてはと思ってでした。
しかし私は子供の時の貴方が、私のあたまからのきませぬ。文壇の大御所とか将棋が非常に強い方とか競馬の何々というのでなく、貴方のお内のあんずの実を、へいの外から盗みに行って、ものほしざおで、頭をぶんなぐられたことや、夏になったらはぜ釣りに、西浜のたがばしの横をあるいていた貴方がです。
私は西浜のステーション前の、うどん屋と風呂屋とをやっておりましたが、今は親不孝者ばかりの私の兄らがつぶしてしまって跡かたもありませぬ。先年母親が生きていた時、母の希望で墓を生きとるうちに建てたいというので建て、亡父の十七回忌をしてあげたら一日病んでなくなったそうです。
ですから来年あたり高松へ帰って墓参りを済まし、満州とフィリピンを見て回り骨をうずめる所を見つけようと思っております。フィリピンへは目下独立運動に来ている上院議員やその他かの地で有力な人々と、ワシントンでちょっとした縁である程度交誼がありますから、何か一つ日本満州フィリピンをかけてのごろつきに似合ったことをやろうと空想しております。
目下の私はユーアイソーシャル倶楽部のリーダーをしております。賭博場の頭です。
ニューヨークヘこんなものを設立するようになった動機や、それをさせまいとする領事や新聞屋日本人会等のきたない女のような蛇の腐ったような邪魔などがあったのを、私は信念と誠心で進み今日何の障りもなくようやく先の見当もつき、基礎も固まりましたから、私と苦労を共にした後輩に部長を譲り隠退する目算をたてております。
来年の今頃米国を後にしたい希望でいます。いずれまたお目にかかる時があると思います。
それから目下米国は不景気のため、立派な学枚を出て技術でも学問でも立派に役に立つと思う青年が、ニューヨークにも十人ぐらいおります。そんな連中もニューヨークでは一つ間違うと腐る恐れがたくさんあります。その人々に満州行きをすすめております。その連中が私とならば行きたいというのです。
ボストン・テクを出た建築家だとか、ノースウェスタン・デンタルなんとかを出た歯科医、コロンビアの商科、とにかくカレッジを出て世の中へ飛び出した連中が市民権がないため不自由をする。
結婚は毛唐とするより外にちょっとチャンスがないような三十前後の連中が、私の所へよく来て将来の希望を語る連中を満州へ植えてやろうと思っております。
何だか、とりとめのないことをたくさん書いて御無礼しました。どうか御判断を乞う。
未筆ながら貴方の御健勝を祈り上げます。
敬白
三月十一日 弓削亀之助拝
菊池寛様
侍史
(八年五月)
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