ドイツにおけるヒットラー内閣の文芸に対する弾圧は、嘆かわしきものの一つである。言論や文芸に対する自由を認めない政治は、共産主義にしろ、ファッショにしろ、不愉快なものに違いないと思う。ヒルシュフェルト博士の性科学に就いての研究書は、自分も二十年前三、四冊読んだことがあるが、性欲に対する真摯なる科学的研究であって、これを非ドイツ的という名前で撲滅しようとするのもまた乱暴きわまる。
永田さんにものをきく会で、同氏は斉藤内閣の存在理由を巧みに説明しておられるが、自分も賛成である。政党が、この一年の間に改革されたとは思えない。斎藤内閣の手で総選挙を行って、政党に対する国民の信用を問うて後、政党の手に渡ってもいいのではないかと思う。
政党の弊害は、政党内閣によっては決して矯正されることがないのであるから、政党政治の弊害を改善する意味で、変体的内閣がもっと続いてもいいと思う。
直木三十五の全集が、改造社から出た。「日本の戦慄」を十二日間に書き上げた直木のことだから、書下ろしというような途方もないことを、やってのけるのだと思う。先に直木の所へ某銀行の店員が預金の勧誘に来ていた。全集が出るので、金が残るだろうというのでやって来たので、笑わせられた。三万や、四万出たとて金が残る直木ではないが、十万くらい出たら残るかも知れない。十万くらい出て、直木が銀行へ預金するのを見たいと思っている。
これは、いささか私事であるが、僕は全集を出す時の略伝に「先祖に天保の漢詩人菊池五山あり」と書いてある。それは亡父から、五山は僕の五代目の先祖菊池万年の弟であると間かされていたからである。だから、菊池五山は僕の家から出て、江戸に出て一家を興した人だと思っていた。現に五山の子孫は、東京に住んでいる。父の代までは年賀などの交換をしていた。ところが、当時僕のこの略伝を読んだらしい五山の子孫に当る人が、僕に抗議をして来て、五山を先祖呼ばわりしてくれては困るといって来たのである。その時、僕はこちらは五山の正系ではないが、しかし五山が僕の先祖の弟であることは、たしかだといって返事をしたが、なにぶん百五十年も前のことなので、僕もどういう風になっているのかはっきり分からながったが、今度「高松市史」という本を読んだところ、それによって、五山と僕の家との関係がはっきりした。
その本の高松藩文学の歴史を書いてある項に「菊池半隠並に其の門流」と題して、次のような記事がある。
二代藩主頼常(水戸光圀の長子である)元禄十五年二月中野天満宮の側に講堂を建て儒学を起すや、入りて経伝を講じ、孔子祭妃の大任に当りしものに菊池半隠がある。名は武雅、字は子師、通称は舎人、薩摩の儒菊池耕斎の次男である。林鵞峰の門に入り、昌平黌の学頭となる。江戸に於て、頼常に知られ駕に従って来り、禄三百石を受け、儒臣となる。其の門流世々藩儒員として永く栄え、遂に明治に及ぶ。就中黄山は中興の老儒として名高く、富村経弼に学びて詩文をよくし、岡井永室に左伝を受く。門人に後藤芝山あり。五山は市河寛斎に学び詩名全国に及んだ。尤も半隠の家と黄山の家とは全く別家にして、途中守
、五山兄弟が、郷普請奉行池内延久の子として一は半隠の家を継ぎ一は黄山の統を承けしため、同姓の関係となった。
ところが、僕の家は、菊池黄山の家である。いつか家に伝わっていた平賀源内の手紙を本誌に載せたが、その宛名は黄山先生となっていた。前の記事で読むと、菊池黄山は半隠の門流でその学統を納いだ人ではあるが、何ら姻戚関係はなかった。(多分、弟子中の秀才として、名前をくれたのかも知れないが)ところが、この両菊池とも継がないために、守
、五山の兄弟が、池内家から出て両菊池を継いだのである。この守
というのが、僕の父のいわゆる菊池万年である。これによって見ると、僕の家と菊池五山の家とは、別家ではあるが、血統は正しく兄弟の家であるわけである。父がいっている通り、五山は僕の先祖の弟に違いないが、僕が、僕の家から出た人だと思っていたのは、間違いであったことがわかった。
ところが、困ったことには、同じ「高松市史」に「人物略伝」なる一項があるが、それを読んでみると、この説と違っているのである。その中に、次の二項がある。
菊池武賢。増田正宅三男改姓菊池、号黄山。宮村経弼門人にして、後藤芝山の師、講道館儒員。(中略)武賢の養子室山講道館儒員。其養子守
講道館総裁、其子藻州同儒員、其子
所同儒員。
所の孫寛小説家。
と、ある。
所の孫寛小説家と書いてくれているのは、僕もいささか祖先の遺風を顕彰したわけで、はなはだ嬉しいが、後藤芝山は、後藤点をもって有名であり、かつ柴野栗山の師であるから、僕の祖先の黄山も、田舎儒者としては、相当なものであったに違いない。また五山の兄に当る守
は、藩黌の総裁となったところを見ると、五山の兄たるに恥じない人だったといってよいと思う。ところが、同じところの菊池五山の項を見ると次の通りである。
菊池五山、室山の実子、名桐孫、武雅の家を納ぐ、市河寛斎門下で詩名高く(中略)
これで見ると、五山は僕の家の二代目である菊池室山の実子で、僕の家を出て師家に当る菊池半隠の家を継いだことになっている。つまり室山は実子の五山を師家の養子とし、他家から守
を養子に迎えているのである。これは将棋所の伊藤宗看なども同じことをやっている。同じ「高松市史」によると半隠の実子は禄を奪われて去ったとあるから、その弟子筋の室山の子が、その名跡を継いだことになるのだろうか。しかし、それだと五山は僕の家から出た人にはなるのだが、守
、五山が兄弟であるという関係は、どうなるのか。たった一つの文献が、前後矛盾しているのではなはだ心細いのであるが、亡父の言葉からいって、前説がほんとうではないのかと思う。が、両説のいずれにしろ、菊池五山が、僕の家と密接の関係があることはたしかであると思う。
今度、社で初めて入社試験によって、社員を二、三人採用してみることにした。今までは縁故、情実によって、才能は問わなかったが、その弊がだんだん多くなって来たので、試験をして有能の人を探してみることにしたのだ。そういう目的であるから、試験はすこぶる難問であった。別項に、試験問題を発表しておいた。学校を出ただけの人には、百題中二十もできなかったらしい。多趣味で、諸書を渉猟し、新聞雑誌を精読している人でなければできなかったらしい。三百人中、七、八十できた人が、二、三人、五十以上できた人は、十四、五人しかいなかった。雑誌には、古今東西のあらゆる記事が出るのだから、諸事百科について、ちょっとした心得は望ましいのである。
百問中誰もできなかったのは「両旗」という語であった。しかし、これは軍記物を読めばすぐ出て来る言葉で、大将の旗が二つ立つわけだから、連合軍ということである。姉川合戦などは、敵味方とも両旗である。ただ、小林千代子とか、映画関係の言葉などは、みんなよく知っていた。現代青年の傾向が察せられるような気がした。「斎藤弥九郎」を現首相と答えたのや、「静かなるドン」を「静かな日曜のこと」などいう極端な人もいた。ダッチ・ハーバーは、太平洋横断飛行の時、しばしば新聞に出た地名で、新聞をよく読んでいる人は覚えていてもよいはずだが、知っている人はほとんどなかった。
(八年六月)
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