話の屑籠・昭和八年

共産党巨頭の転向、河上博士隠退声明などで、為政当局が、ほくそ笑んで能事終れりとしていたならば、はなはだ危険である。街に満つ生活難と失業苦とは、ここ二、三年来少しも緩和されていないし、これを救おうとする社会政策が何ひとつ計画されているのをきかない。


とにかく、八十の老婆が一家の窮乏を見かねてスリを働いてこれを救わんとしたり、夫婦に子供四人の生活に少しでも余裕をつけようとして、六十の老婆が縊れて死んだり、暗澹たる世相はますます険しくなっているようである。


国力の発展も結構であるが、国内にかような悲惨事を絶滅させることが、さらに急務であると思う。新聞に出ているこうした一つの事件の陰には、それに類した幾千幾万の事実が、存在していると思ってもいいと思う。


松竹レビュー争議について、考えたことであるが、現代の興行界は劇場に金をかけ過ぎていると思う。劇場の建築そのものに金をかけすぎて、その金利に追われる結果、人間に対する待遇が、おろそかになっているのだと思う。もっとも、劇場に金がかかるのは、見物の壮麗な建築を欣ぶためもあるだろうが、見物も小屋や大道具などの立派なものよりも、芝居そのもののよいのを好むようにし、興業師も小屋や大道具衣裳などに、金をかけるよりも、人間を大切にすれば、争議も後を絶つのではないかと思う。自分は、近頃新宿のムーラン・ルージュをよく見るが、小屋にも何の装飾もなし、ベッドは人が上るとぐらぐらゆるぐし、椅子は一つか二つしかないし、それでも芝居の面白さには、何の邪魔でもない。小屋の立派さで、お上りさんを呼ぶなど、およそつまらないことだと思う。小屋は堅牢簡素なものでたくさんである。そうすれば、見物料も安くなり、人件費に金をかけることができるのではないかと思う。これから劇場を建てようとする小林一三氏などには、つとめて安上りの小屋を作ってもらいたいと思う。


モダン雑文家といわれる中村某君については、自分は何にも知らないが、心中するつもりであったという以上、そう認めてやってもいいのではないかと思う。狂言の心中をやって、人気を博そうとしたというような考えは、文壇の事情にうとい半可通な人間の考えることで、現在のジャーナリズムがいかに軽佻でも、心中の仕損じをしたということだけで、倍旧に原稿が売れるわけはないと思う。心中における自殺幇助とか嘱託殺人云々などくらい、つまらない犯罪はないと思う。心中を装って、相手を殺そうとするものを防いだ法律であろうが、たいていは薄志弱行の心中仕損ない男を、さらに法律の轍にかけることであって、残酷すぎると思う。


「経済往来」の「新作三十三人集」の顔触れを見ると、十二、三年前の文壇を想起する。もっとも、既成作家の復活も一時の現象に過ぎないだろうが、それにしてもプロレタリア文学の凋落の姿は、あまりに極端過ぎる。弾圧による被害も大きいだろうが、結局ほんとうの意味の作家が少ないからであろう。イデオロギー文学というものは、いかなる場合にも一時の流行である。そのイデオロギーが、どんな重要なものでも、同じである。

(八年八月)


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