話の屑籠・昭和八年

五・一五事件の被告たちの心境は、維新志士のそれに比して、さらに純粋悲壮なるものがある。維新の志士などは多くは自分の藩を背景として策動した点において純粋とはいいがたい。


これら、純情の士を駆って矯激の行為に走らしめた政党財閥の連中は、三省すべきであろう。今政友会など、どうしていいか分からない境地に落ちているのは、自業自得ともいうべきである。


政党の腐敗堕落を攻撃しながら、いざ選拳となると、やはり既成政党が過半数を占めるのであるから、気短な人たちが、直接行動以外革新の道なしと考えるのももっともである。国民大衆が、もっと政治的に目覚め、その政治的批判が、峻厳を極めなければだめである。五・一五事件などが起るのは、政治家の堕落と共に、こうした連中を漫然と支持していた国民大衆も、その責任の幾分を負うべきである。


吉田松陰や、橋本左内や頼三樹三郎が死刑になったのは、百年の後なお我々の心を憂鬱にするものである。まして、七生報国のモットー以外、何物もない純真無垢の連中である。戦争でもあれば、最先に華々しく討死にする人たちであろう。


防空演習などがあると、対外関係もだんだん険悪になるような気がして来る。結局世界平和などは、痴人の夢であって、日米戦争なども、いつ起って来るか分からないように思う。日本がカルタゴになるかアメリカをカルタゴにするか、そういう必死的の戦役だって起らないとは限らないと思う。一度戦うと、日本と米国とは、どうしてもローマ対カルタゴの関係である。その国風などから考えると、日本の方がよりローマらしいところがあるが、しかしそう簡単には行かないだろうと思う。プルターク英雄伝でもよんで、国家興亡の跡をよく研究する必要が我々にもあるのではないかと思う。


しかし、そういう国難時代が来ることを考えるにつけても、内政において、一日も早く合理的な革新が行われることが、もっとも望ましいことである。現在の選挙法における憲政改治が失敗であることは、議論の余地がないと思う。斎藤内閣のような超政党的な内閣によって政党政治の弊を救うに足るような新選挙法が制定されることは、もっとも望ましいことである。

(八年九月)


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