直木の肝煎りで、松本警保局長と我々とが会って話をした。検閲問題では当局者との意志もかなり疏通したから、今後は今までのような不安も、多少薄らぐだろうと思う。また同じ時に出た文芸院云々の話が、そう簡単に実現するかは疑問だが、しかし政府当局が文芸に対し注意と考慮とを払い、多少の金でも出してくれようというのならいいことである。今までの文芸家は、継子扱いをされ、多少ともひがんでいたのだが、そのひがみ根性を無くしてくれればけっこうである。
文士が俗権に媚びず、不羈奔放な生活をしようとしても、現代では、そうはいかない。所得税などは、実業家などよりもっと目こぼしなく取られるし、法律の適用は遠慮なくやられるし、結局普通の国民と同じように、取り扱われるのである。そうなれば、実業家などが金もうけ仕事をしていながら、勲三等になったり、貴族院議員になったりするように、文士も国家から待遇されてもいいわけである。与謝野晶子氏もいっていた通り、教科書の文章が、七、八分まで現代文士の文章より成っている以上、紡績や鉄器などを作っている連中よりは、功績があるといってもよいわけである。
明治時代の大臣たちが、自分たちの書画骨董趣味から、絵画だけが分かり、美術家だけを国家的に優遇しているなどおかしいことである。美術品などいかに傑作でも、個人に私有されがちであり、人目にふれる範囲も極めて小さいのである。文芸作品の普及する範囲の百分の一にも足りない。
文芸院の話がものになるかどうかは分からないにしても、政府当局の中に、文芸の役割を認めている人が現れたことは欣ばしいことであり、国家が文学を継子扱いにしないようになれば、文学もまたそれだけ国家のために、役立つことになるだろうと思う。
佐々木味津三君が死んだ。「文藝春秋」創刊当時、「猥談」なる題目で、毎号気を吐いていたことは、古い愛読者はご存じの通りである。「文藝春秋」を大ならしめた功労者の一人である。中途大衆文学に転じたが、亡兄の遺児の多くを引き受けて、奮闘していた。純文学に精進すると称して、妻子眷族を泣かしめている連中に比しては、人間としても作家としても、秀れていることは、以前にも一度書いたことがある。大衆作家としての力量も近年著しく進境をみせていたが、十指に近い病気と戦い切れなくて倒れたのは、気の毒である。(なお、同君の死んだ翌日「読売」に出た僕の話の中で、同君の初期の文芸作品を、センチメンタルと評してあるのは、間違いで、僕がナチュラリスチックといったのが、誤られたのである。)
「スギノハイズコスギノハイズヤ」子供が大きな声で歌っている。何といういいまわしの下手くそな、語呂のわるい文句だろうと思っていたら、小学教科書にある広瀬中佐の歌の文句である。「杉野は居ずや」なんて、こんなまずい文句が、世の中にあるだろうか。
大阪に行ったついでに、大阪における広告主を一夕招待した。大阪で広告主を招待するなど、何だかおかしいようなくすぐったいような話であるが、本社もいつの間にか、そんな風になったのである。中山太一氏なども来てくれたが、武藤山治氏に似ている温厚円満な紳士に思われた。
なお、席上、上山勘太郎という若い実業家がいたが、後で聞くと、この人が「純真村」というパンフレットを、数年来僕の所へなども送ってくれている人であった。「純真村」という東郷元帥の題字のパンフレットだけを見ていると、何か地方の精神家のように思われていたが、その人が大阪の少壮実業家であろうとは、意外であった。
(九年三月)
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