話の屑籠・昭和九年

この数年来、新聞雑誌の言論が微温的で、あらゆる人が、ほんとうにいいたいことをいい得ないで、顧みて他をいう人が多いのは、情ないことである。しかし、大新聞や大雑誌になると、一度弾圧を受けると被害が大きく、影響するところが大きいので、結局金持ち喧嘩せず、お座なりしか書かなくなっているからで、多くのインテリ読者は、みんな不満を感じているだろう。国家に諌争の臣なくんば国家危うしという言葉もあるが、あらゆることに対して、もう少し堂々たる反対論や異説があっていいと思う。五年前の日本は、そうだった。

思い切った言説が行われないのは、新聞などがあまりに、大きくなりすぎたせいであろう。この頃、現役予備の新聞人だけでやっている聞人会というのがあり、そこから「聞人」という四ページのパンフレットが出ている。その巻頭に載っている「没羽箭」という寸評は、痛快である。各新聞の寸評も、あの程度まで行ってくれると、我々はもっと頼もしい気がすると思う。もっとも、この「聞人」など発売禁止になっても、二、三十円の損ですむのだから、気楽に書けるのであろうが。


親子心中のことを二、三カ月前に書いたが、内務省社会局の原氏の話では、各地の方面委員が、親子心中防止のために、極力尽力しているとのことで、そうあってしかるべきであるが、国家としては一歩進んで、積極的に救済に当るべきではないかと思う。どんな貧乏人で、子供を養う能力など少しもない人たちに、産児制限を勧めず、堕胎を厳罰している以上、三、四人も子供を持った貧乏人はどうして食っていけばいいのか。こんな無理な話は世の中にないと思う。これは、僕の私案なのだが、相当収入がある結婚生活者にして、子供がないものには、無子女税を課し、その収入をもって、三人以上子供を持っている貧乏な結婚生活者を扶助するようにしたらどうがと思う。このくらいのことは、少し頭のいい内務大臣でもいれば、容易に実行できることではないかと思う。国家が、貧乏人に産児制限を奨励せず、堕胎を認めず、子供を産め産めといっている以上、生れた子供に対して責任を持つのは当然であると思う。今のような状態では、親子心中の原因は、為政者にあるといわれても、仕方がないと思う。


国際文化協会というのがあって、日本の文芸や芸術を海外へ宣伝するという話であるが、そういうことは、少し早くはないか。それよりも、対内文化協会というのを起して、国際文化協会の委員である政治家や実業家や役人などに、日本の文化や芸術を理解させる工作をする方が、もっと急務だと思う。


僕が仏教のことを二、三度かいたら、未知の方から、本を送ってくれたり、手紙をくれて指導してくれたりした。ある人は、禅をすすめ、ある人は日蓮宗をすすめたり、いろいろである。しかし、僕は考えたが、やっぱり我々が仏教をやるとすれば、禅がいちばん適しているらしい。信仰ではなく、さとりである。


実業家出身の大臣が収賄したというから、数百万円か、せめて数十万円の金かと思ったら、わずかに三、四万円とは意外であった。相当の財産もあろうに、わずかそれほどの金をも拒否し得る恒心がないのだろうか。もっとも表面に現れている以外に、もっと貰っているというのなら話は分かるが。こういう人に比べると、自分の位置を保つために、またわずかな立身出世のために、十円の商品券を、また一人前十何円かの饗応を上役に提供するくらいは、世俗のいわゆる「つけ届け」をわずかに超過したものに過ぎないと思う。しかも法律の轍によって、引き潰さるる有様は、後者の方がひどいだろうと思う。


黒田如水の時、薪泥棒あり、如水奉行に命じて「薪泥棒を捕らえて斬れ」という。奉行早速薪泥棒を捕えて斬らんとす。如水叱して曰く、「お前は、何という馬鹿ものだ。薪泥棒は斬ると脅して薪泥棒を止めさすのが奉行の役であるのに、実際に捕えて斬らんとするがごときは、何ということだ。その人間を斬り、薪に着物をきせて、その人間の代りが勤まるか」と。世の中が法律万能、警察完璧になると、むかしの名君的な手などは、どこにも見られなくなるのであろう。手工業的であった、司法警察などが、大機械工業的になり、それと同時に、味も匂いも無くなるのであろう。

(九年九月)


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