話の屑籠・昭和九年

「芥川龍之介全集」が今度廉価本として売り出されることになった。死の直後の全集は、定価が少し高かったが、今度は安いから相当に売れてくれればいいと思っている。芥川の作品はいずれも手のこんだ、細工をこらしたものであるだけ、長く机上に備えて暇のとき愛読する価値が十分あると思う。芥川の遺族は、生活には困っていないが、なにぶん遺児が十六を頭に男の子ばかり三人で、しかも秀才揃いだから、将来の学資の準備があれば、未亡人も心丈夫でいられるわけである。


今秋、講演に各地を回るが、予定にはいっていない地方の読者から文句が来ている。決して地方によって厚薄をつけるわけでなく、今秋行かれない地方には、来春きっと行くつもりである。


先月号で国際文化協会とかに、ちょっと皮肉をいったら、柳沢健氏が、僕の眼界が狭いといって非難しておられる。しかし、自分は日本の朝野の有力者が、文芸などを今までまるで冷眼視していながら、対外的にだけ利用しようというのが気にくわないのである。せめて、柳沢君くらいの文芸理解者が、あの委員の中に十人もいれば、いつだって賛成するつもりだ。柳沢君は、僕が眼界が狭いといって非難したが、「朝日」の大伴女鳥氏は僕の言説をクリーン・ヒットだといって褒めてくれた。いつも第三者の評は正しいものだから、たしかに柳沢君の非難の方が間違っていると思っている。


紅葉の「金色夜叉」は、どう考えても大衆小説であるが、なかなか亡びそうにもない。大衆文学を叩き潰せなどいってみても、面白いものは、現代にはびこるばかりでなく、後世にまで残るものであるらしい。純文学でも大衆文学でも、人にたくさん読まれるのが肝心である。読まれない文芸などは、純文学であろうが何だろうが、結局飛べない飛行機と同じものである。

本社の「オール讀物」十月号に出た川口松太郎の「鶴八鶴次郎」というのは、なかなかいいものであった。大衆文学中希に見るよき世話物だ。川口は、元は下手であったが、この頃は一作一作腕を上げている。新聞のつづき物を、どっかで思い切って書かしてやれば、立派な一流の作家になれるであろう。


自分は、近代の歌人では、幕末の橘曙覧が好きである。これは、二十年前京大で藤井博士の講義を聴いて以来好きである。この頃歌集を読んでいると、こんな歌があった。

縫物のおやにうみけん手を頬に

あてて蔀に寄る少女かな

こんな小説的なハイカラな情景を歌った歌は徳川時代には外に絶対にないだろう。


古来祈雨祈晴の歌の中では、実朝の

時により過ぐれば民の嘆きなり

八大竜王雨止めたまへ (本が手元にないので少し違っているかも知れん) と、小町の

千早振る神も見まさば立ちさはぎ

天のかはとの樋口開けたまへ は古今の双絶だと思う。

(九年十月)


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