文部省で主催する「帝展」には、文士を招待しないのに、陸軍省でやる今度の大演習に我々にも見ないかと勧誘してくれた。もっとも、陸軍も海軍も、二、三年来何かにつけて、我々にも招待状をよこしてくれている。今までは一度も行ったことがないが、今度はモーニングを新調して、陪観の栄を得たいと思っている。
以前、鳩山さんが文相であったとき、帝展に作家を招待しないのはおかしいといったら、よくその抗議をいれてくれて、去年の秋は招待状を二、三枚送ってくれた。ところが、松田文相になると、たちまち元の通りになった。もっとも、松田文相は、物故文人慰霊祭にも暴言を吐いて、参拝しなかった人だから、文士などを認めないのは当然である。しかし、政党人などは、こういう風に頭が古いから、近頃では軍部に押されて、手も足も出なくなるのではないだろうか。少なくとも文士に対する考え方からいっても、軍部の人たちの方が、遥かに進歩的である。
徳田秋声氏が、正宗白鳥氏の批評に対して憤慨していられる。美術界では、特選制度とか審査員制度などというものがあり、功成り名遂げた老大家は、保護されている。それに比べると、文壇はどんな老大家でも、創作を書いて衣食しなければならず、それが常に月評に晒されているということは、気の毒である。制度はなくとも、各自の気持ちの上で、老大家優遇の道が、講ぜられてもいいのではないかと思う。
九州の講演旅行は至るところ、大盛況であった。八幡や佐世保などは、聴衆が活気があり、しかも静粛であった。その他もよい聴衆であった。ただ熊本だけは、ちょうど防空演習の日にぶつかったため、予定を変更して、昼間やった。そのため、肝心の会社員学生諸君などが来られないことになって残念だったが、その代り婦人の聴衆がどこよりも多く、結局千二、三百人の盛会だった。
熊本城は、想像していたのとは、まるで違っていた。私は、樹木のない平城を想像した。しかし実際は、かなり小高い山上にあり、なるほど天下の名城だと思った。直木三十五は、加藤清正をけなしていたが、しかしあれだけの城を築き得る人は、相当の人物に違いないと思った。
熊本の市街を流れる白河という川は両岸に樹木多くいい川だった。
他の市街は、ほとんど見物しなかった。佐世保は旅館と駅との間を、自動車で往復しただけである。もっとも長崎は、大正八年芥川と遊んだことがあり、そのときの感じを、そのまま傷つけない方がいいと思ったせいもある。迎陽亭という長崎料理の主人から、御馳走になった。東京へ持ってきても恥かしくない料理である。宿屋は、八幡の富士屋、博多の水野、熊本の研屋、長崎は上野屋、みな好遇してくれた。上野屋の女中は、みな女学生上りで、文学少女であった。
(九年十二月)
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