プロデューサー・インタビュー/江並直美 デジタローグ



Q:それは何年ぐらいの話ですか?

 92年にそういう話を聞いて、ちょうどおりしもデジタローグ・ギャラリーというのをうちで作ろうという話があった年でしてね。ギャラリー作るのはいいけど、どうやって維持するか考えてなくて、とにかく「モニターで作品が見れるギャラリー」を作ろうと、あとのことは作ってから考えればいいと……そういう超いい加減な発想で始めたわけです。

 ただどうしてそういうギャラリーを作ったかというと、当時コンピュータを使った展示会をけっこう手掛け始めていたんですが、それって面倒くさいわけですよ。いろんな所に話に行って、いちいち機材を借りてこなくちゃいけない。だったら小さくてもいいから常設の場所を作ちゃおう、と。モニターだったらそんなに広い場所はいらないし、展覧会そのものも広い場所はいらないわけですよね。そういう日本的な発想でもって、いわば「おたく」発想で「おたく」美術館を作ろうとしたわけですよ。

 おりしも日本バブル経済崩壊の只中だったかな? とにかく厳しい社会情勢だったんですが、無理矢理作ったわけです。社内の経理からは大反対を受けましたよ。「何でこんな金がかかって一銭も得られないものを作るんだ」って。だから「うるさい! 作ると決めたから作るんだ」って叫んで、強引に作ったわけです。

Q:そうするとデジタル・ギャラリー構想と、CD-ROMのようないわゆるデジタル・ソフトをプロデュースしていく方向でいうと、最初にあったのはむしろギャラリー的な構想の方だったんですね。

 ただ、ほとんど同時でしたけどね。最終的に92年の11月後半にギャラリーをオープンさせるということでお金を準備して、10月の頃には最初のCD-ROMを作ろうとしていたから。わずかでもギャラリーの運転資金が出せればいいかなというくらいの気持ちで、とにかくCD-ROMというモノを1回作ってみよう!、という感じだったんですね。それで一番最初に写真家の五味彬氏の作品集『YELLOWS』というのを作るわけです。ところが作ったはいいけれど、どこで売るのか知らなかった。要するにコンピュータ流通の何たるかを知らなかったわけで。それがうちのいい加減なところです。まあ、それで僕はいいと思ってますけれど。だいたいそういう流れで、マルチメディアといわれる変な分野に僕らは参入していったわけです。



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