山森茶館

「契爺」とは広東語でゴッドファーザーの意。香港お嬢たちから親しみを込めて契爺と呼ばれるAsiatic Exproler 山森洋一さんが、アジアの各地で遭遇した旅の場面 を伝えるフォトエッセイ「契爺茶館」。アジアのさまざまな風景を毎月お届けします。

2000年4月

幸州山城:ミサイルとエプロン

ミサイルの正面

これぞ 16 世紀の最先端兵器

写真:山森洋一 撮影:2000 年 3 月 20 日正午ごろ

京畿道高陽市はソウル特別市の郊外北西に位置するが、高速道路や高層ビルがソウル 中心部から切れ目なく続き、いまや1,100 万首都圏に呑みこまれた感がある。南側に大河漢江が悠々と流れ、周辺には市民のピクニックに恰好の地が多い。漢江を 20 キロも下ればもう黄海である。このあたりの漢江の両岸はほとんど平地だが、金浦空港からほど近い右岸に一帯ではひときわ目立つ小高い丘が河べりに迫る。ここは幸州山城(ヘンジュサンソン)という、高陽市が誇る史跡である。

400 年ほど前、豊臣秀吉は文禄・慶長の役を通じて、朝鮮と明国をその版図に組み入れようとした。1592 年4月の小西行長から始まり、1598 年 11 月までの期間に前後 26 回の各地での戦闘記録が残されている。ちなみに秀吉は 1598 年8 月に世を去っているから、その後の三ヵ月間朝鮮側は事実を知らずに戦っていたわけだ。日本側もそれを秘し、講和に持ち込もうとした。さて、26 回の戦闘で朝鮮側が勝利したのは 4 回だけである。幸州山城の戦いがその一つで、高陽市が民族の誇りとして高らかに謳いあげているのは、その勝利が奇想天外と言ってもよいものだったからだ。現に、通 りのあちこちに戦勝 407 年記念の幕が吊るされていて、毎年架け替えるらしい。

ミサイルの全体像1593 年 2 月 12 日、宇喜多秀家は 3 万の軍勢を率いてソウル攻略に入った。朝鮮側は大軍に戦意を喪失してしまったという。だが、ここに文官であった権慄(ユン・ユル)が起ちあがり、ソウル侵入を防ぐ戦略的位 置にあった幸州山城に立て籠ったのだった。人数は婦女子も含めて僅か 2000 人、戦闘を指揮した権慄は将軍として後世に名を残した。では、どうやって勝利したのか。当時の朝鮮軍には鉄砲はなかっ た。だが日本勢にはなかった近代兵器を明から借り入れていた。ミサイルである。その名を「火車圓銃」という。先端に爆薬を仕込んだ矢を同時に 100 本発射できるのだ。かのパトリオット・ミサイルを彷彿とさせるではないか。

しかし、である。この武器はそれほど効果を発揮しなかったようなのだ。幸州山城は岩山で、下から攻め上げる宇喜多勢に対し、劇的に有効だったのはいわば岩石落し だった。婦女子が前掛けに手ごろな岩を包んで運び、兵士たちは急峻な岩場を登る攻め手めがけて投げ下ろす。なにしろ無尽蔵にあるので、宇喜多勢は死傷者多数、ついにあきらめて引き揚げざるをえなかった。幸州山城の勝利は戦闘だけでなく、朝鮮兵士の奮闘を助けた婦女子たちが身に付けていた前掛けが果たした役割で有名なのだ。

これは、幸州チーマつまりエプロンの代名詞として、韓国の人々が誇る象徴的な物語だといっていい。


(c)2000 Yoichi Yamamori

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