「契爺」とは広東語でゴッドファーザーの意。香港お嬢たちから親しみを込めて契爺と呼ばれるAsiatic Exproler 山森洋一さんが、アジアの各地で遭遇した旅の場面 を伝えるフォトエッセイ「契爺茶館」。アジアのさまざまな風景を毎月お届けします。
2000 年 10 月
![]() |
これが中央アジア版宴会 1996.2.12 午後4時
ウズベキスタンのブハラはサマルカンドとともにシルクロードの重要地点として繁栄したオアシスの町。かつてブハラの町は城壁に囲まれ、今もその一部が残っているが、これは外敵の侵入だけでなく北方にあるキジル・クム(赤い砂漠)から吹きつける大量の砂を防ぐためであった。このオアシス町は2000年の歴史をもつが、その間アラブ人の侵入、北方遊牧民チュルク族(後のトルコの先人)、さらにはチンギス・ハーンの攻略するところとなり、徹底的に破壊される。いったんはチムールによって再興されるが、再び北方遊牧民のウズベク人が南下、分裂混乱ののちブハラ汗国として栄えた。しかし、海路交易によるシルクロードの地位低下とともに新しい文化の流入は止まり、以来この町はイスラム復興の牽引的存在となり、中央アジア有数のモスクやメドレセ(イスラム学校)がこんにちも残る。ブハラが中央アジアのイスラム教徒のメッカといわれる所以である。
ブハラ郊外のGizhduvan 村に陶芸家一家を訪ねた。ウズベキスタンは北のフェルガナ地方やサマルカンドをはじめ、良質の土に恵まれ古くから陶芸が盛んだ。アブドゥラーさん一族も6代続いているそうで、父君はこの国の数少ないMaster of Ceramics の称号を持つ。ご本人もユネスコの支援で自宅を学校にし修行中の弟子を4人抱えている。問題は陶芸ではなかなか生計を立てにくく、首都のタシケントや隣国のトルクメニスタンなどのフェアや市で売る商品づくりに忙しく、なかなか作品制作に打ち込めないのが現状だという。作業場では、馬車に壷や皿などの製品を積み込んでこれからトルクメニスタンのバザールに出かける弟子たちが忙しく立ち働いていた。
そんなお話を聞きながら作品を見て、ふと振り返ると極彩色のブハラ絨毯(ブハラ絨毯はきめ細かいデザインと色の美しさでも中央アジア随一だ)が敷かれ、つぎつぎとナン(中央アジアのナンは5,6センチの厚みがある)、プロフ(羊肉のピラフ)、野菜、果物が運ばれてきた。タシケント在の陶芸家アクバル・ラヒモフ氏(やはり人間国宝の称号をもつ)の案内で旅を続けていたのだが、電話があるわけではなく突然の訪問である。かつて会ったことがある程度の知り合いなのだが、どこに伺っても必ずこうしたもてなしを受けた。
手のあいている弟子やわれわれの車の運転手も混じって車座となり、さっそく宴会が始まった。もちろん酒は極上のウォッカだが、イスラム教徒はアルコールを飲まないものだと思っていたから、少々まごついたものだ。教義より客を迎えているという現実のシチュエーションの方が大事なのである。宴会はまず、主人のアブドゥラーさんの挨拶が皮切りである。「アッサラーム・アライクム」(平安がありますように)の言葉とともに、両手で顔を包み込むようになであげる。その後に「見たこともない遠い国からよくいらっしゃいました・・・」から始まって「平安な旅が続くように」で締めくくる。そこでグッとグラスを干す。2,3分すると今度は同行のラヒモフさんが促される。そして次が私。答礼をする方は冒頭の挨拶を「アライクム・アッサラーム」と語順を変える。
これは予期できたので無難にこなしたが、困ったのはこのスピーチが何回も繰り返されることだった。話していて30分もしないうちに、座の誰かがやりだすのである。終わると皆が目を輝かせてこちらを見る。その都度違う内容を英語でやらなければ(英語−ウズベク語)ならないから、正直弱った。この時は4時ごろから始まって8時ごろまで続いたと記録してあった。空けたウォッカが写真のメンバーで無慮8本。この宴会で何かというと出てきたキーワードが「マーワラー・アンナフル。」ブハラだけでなくウズベキスタンのどこでも聞かれる言葉で、「母なる大地」といった意味合いがあるようだ。歴史上様々な民族が交錯した地ウズベキスタンを象徴している言葉であり、マーワラー・アンナフルの地では客を粗末にしないのがウズベク人の誇りなのだ。
![]() |
アブドゥラー夫妻と息子 1996.2.12 午後8時
(c)2000 Yoichi Yamamori