芥川龍之介 | 閉門即是深山(菊池夏樹) | honya.jp

閉門即是深山 201

芥川龍之介

この『閉門即是深山』も200回を超えた。毎週配信されているから、4年以上続いたことになる。テレビ刑事ドラマでもあるまいし、私には、毎週事件は起こらない。今回は何を書こうかと悩む日々を暮らしている、が、痩せない。

芥川龍之介は、祖父・菊池寛の帝大英文科時代からの同級生で、親友である。芥川は、明治25年3月1日生まれだから、明治21年生まれの祖父とは4歳も離れていた。祖父は、高松の貧乏な家に生まれであったから、大学に入るのに苦労した。
明治維新が世の中を変え、教師を作るために国がとった政策は、月謝いらずの師範大学であった。祖父は、飛びついた!文学を志していた祖父にとっては、つまらない授業だったに違いない。直ぐ辞めた。やはり国の政策のため法学士が必要だったに違いない、明治法科大学に入った。今の明大である。祖父の遠い親戚のおばさんの夫が弁護士になるなら養子にしても良いというので、祖父は、これにも飛びついた。そして高橋寛となったが、興味の湧かない授業で、退学した。次は早稲田大学だった。金の無いために相当遠周りをして、現役の皆より4年遅れで待望の帝大に入ったのだ。クラスメートに芥川をはじめ、後に小説家となった久米正雄、松岡譲や佐野文夫たちがいた。

今年は、芥川龍之介歿後90年にあたる。先々週高松市菊池寛記念館の催事で「歿後90年 芥川龍之介」展があった。毎年、この時期には文学展がある。いつも白い手袋をはめさせられ、神妙な顔つきでオープニング・セレモニーの紅白のテープカットを大西市長と菊池寛顕彰会会長と並んでチョキンをする。そして、マイクの前に立つ。一声は「朝早うからご苦労さん!」だ。普段は、原稿を起こさないで、その時の思いつきで喋る。しかし、芥川龍之介となれば、そうはいかない。研究者が多いからだ。小説家宇野浩二さんは「私は、芥川を思い出すと、いつも、やさしい人であった。親切な人であった。しみじみした人であった。いとしい人であった。さびしい人であった、と、ただ、それだけが、頭にうかんでくるのである。それで、私には、芥川は、なつかしい気がするのである。時には、なつかしくてたまらない気がするのである」と、著書に書いている。
祖父の芥川への弔辞が残っている。「芥川龍之介君よ、君が自らたくみ、自ら決したる死について我等、何をか云わんや。ただ、我等は君が死面に平和なる微光の漂えるを見て、甚だ安心したり。友よ安らかに眠れ!君が夫人賢なれば、よく遺児を養うに堪えるべく、我等亦微力を致して君が眠りの、いやが上に安らかならん事に務むべし。ただ悲しきは君が去りて、我等が身辺とみに草蕭條たるを如何せん」
亡友の亡きがらの前で周りも気にせず号泣した祖父の最後の言葉だった。