第IV章 感性市場の行方

1 混乱する消費社会論−−マーケットの構造変化

消費社会論が花盛りである。一九八四年から八五年にかけて出版された主要な著作だけ取り上げてみても、『消費文化論』(飽戸弘、中央経済社)、『消費の記号論』(星野克美、講談社)、『「分衆」の誕生』(博報堂生活総合研究所、日本経済新聞社)、『さよなら、大衆』(藤岡和賀夫、PHP研究所)、『柔らかい個人主義の誕生』(山崎正和、中央公論社)、『気分を消費する社会』(小川明、ダイヤモンド社)、『新「階層消費」の時代』(小沢雅子、日本経済新聞社)などがたちどころにあげられる。このように、消費社会論がにぎやかなのは、大衆消費社会が生まれるプロセスで貢献してきた既存のマーケティング理論が、最近の消費者の意識と行動を説明できなくなってきたからであろう。

前述した諸論文の様々な側面からのアプローチによって、現在の消費社会を理解するための説明は情報過多といえるほど、既に十分なされていると思われるので、ここでは少し私なりに交通整理を試みてみたい。

現在、巻にあふれている消費社会論は、大別すると次の四つに分けることができる。

  • 消費飽和論
  • 階層消費論
  • 感性消費論
  • 消費記号論 まず、各々の消費論の概要について見ておこう。

    ◆消費飽和輪と階層消費論

    最初の消費飽和論とは、伸び悩む個人消費を説明するためにメーカーや小売業者の中で根強く支持されているもので、耐久消費財の普及が一巡したことと、非耐久消費財が飽和に達したことが消費の不振を招いている原因であるとする説である。確かに我々の嗜好には一定の量的限界があるから、酒やタバコのような商品では、特定のブランドが売れると、他のブランドの売れゆきが落ち込むという関係が成立する。昨今のように焼酎が売れれば、ウイスキーは売れなくなるのである。しかし、消費飽和論ですべての商品の不振を説明することはできない。例えばサントリーの「オールド」が売れなくなったのは、もちろん焼酎ブームのあおりを受けたことも大きいが、我々がまだ貧しい時代にもっていた「早くオールドを飲める身分になりたい」という切なる願望が現実に満たされることによって、逆にオールドに対する魅力が減少したことも無視できない要因であろう。

    耐久消費財の一巡説も説得力を欠いている。VTRのように普及率がまだ三〇%にも達していない人気商品が八四年の夏、バッタリと売れなくなった現象を説明できないからである。あれはやはり、異常な暑さの中で、消費者がVTRよりクーラーを先に買ったために生じた現象と見るべきであろう。この仮説が正しいとすれば、今でも可処分所得や自由裁量所得の伸びと消費財の売れゆきは密接に結びついていることになる。世帯への普及率がほぼ一〇〇%に近いテレビが、一人一台、あるいは一部屋に一台ということで新たな需要を開拓しているように、VTRでもクーラーでも可処分所得に余裕のある世帯では一部屋に一台という形で需要を開拓できるだろう。もちろん、テレビが腕時計タイプの超小型携帯タイプ、あるいは高品位テレビなどを開発し、人々の余暇行動の活発化など新しいライフスタイルに対応して新たな需要を開拓しているように、生活構造の変化に適合する形で先端技術革新の成果を取り入れた新商品開発を進めていかねば売れる商品にならないことはいうまでもない。

    二番目の階層消費論とは、高度成長期に縮小した所得格差が、一九七〇年代以降、農家と非農家、経営者と勤労者、官公庁職員と民間職員の間で拡大しつつあり、さらに土地所有の有無を中心に資産に大きな格差が生じてきていることを実証的に分析したものである。また階層消費論では、購入商品の単価の大小が金融資産の大小と結びついている事実を明らかにし、消費の高級化は個性の結果などではなく、今、中流幻想が崩壊し、新しい「階層消費の時代」が始まっていることを指摘している。この階層消費論の実証分析は、基本的に正しいと思われる。現に、人々の階層分化が進んでいることを示すもう一つの事実がある。

    それは、経済企画庁の「国民生活選好度調査」に現われている上流意識層の年々の伸びである。我々は、国民の九割以上が中流意識という一億総中流のほうに目が向いてつい見落としがちであるが、自分を「上流」と見る人が、七二年−二・五%、七五年−三・八%、八四年−五・四%と着実に増えているのである。一二年前に「四〇人に一人」だった上流意識層が、今は実に「一九人に一人」存在しているのである。多分これらの層の人々が、消費の高級化を底支えしているのであろう。これは決して負け惜しみでいっているわけではないのだが、私には、増えつつある上流意識層に小金持ちや成り金の人が多く、消費の現場で金にモノを言わすような風潮が出ているように思えてならない。高度成長期以降、開発利益を享受し資産を拡大している都市および都市近郊の地主層が、増大しつつある上流意識層のニューカマー(新参者)だとすれば、まんざら理解できない話ではない。しかし、一方、「家計費の硬直化」と「心理的欲望の肥大化」のもとで、豊かさの中のある種の精神的な窮乏感を強めつつある層も出現しつつあるわけであり、決して彼らの感情を逆なでしてはならないであろう。

    ◆感性消費論と消費記号論

    三番目の感性消費論とは、博報堂生活総研の『「分衆」の誕生』に代表される、今最も流行している消費論である。その内容は、(1)わが国の現状は、求心力が作用して画一化が志向される大衆社会が崩壊し、遠心力が作用して差異化が志向される分衆社会が出現したと見るべきである、(2)このような社会現象は、人々が共通の目標に燃える集合アイデンティティを失ったことによって生じたものである、(3)その上に家計における経済条件の変化が加わって、中流意識層を新たにニューリッチとニュープアーの二つに分極化している、というものである。『「分衆」の誕生』に代表される感性消費論では、このように、日本にはすでに「大衆」はなく「小衆」や「分衆」しか存在せず、したがって「顧客」より「個客」が重要であり、「価格」より好き嫌いという「感性」が大切だという点で一致している。

    確かに、わが国では相変わらず物財欲求の充足を求めるワンパターンの消費者=大衆が存在しなくなったのは事実であるが、人々が意識の上でも個性化し、多様化して小衆や分衆といわれる存在になっているとは断定しにくいのではないだろうか。超長期的に見れば、今、時代の大きなうねりとして、人々の価値観がハビング(物を所有すること)からビーイング(自己実現)へ向けて変わりつつあると見るのは正しいと思う。しかし、現状では差異化も人並みという安心感をベースに、ほんのわずかの違いをアクセサリー的に身にまとっているに過ぎないのではないだろうか。この点については、次節で述べるように、頑固なまでの自信をもって自分なりの流儀を貫く個性をもった小衆や分衆が登場するには、もうしばらく時間の熟成が必要なように思われる。

    最後の消費記号論は、消費市場に現われている不可解な現象を、記号論を主たる分析の手がかりとして消費の深層を探ろうとするものであり、商品が単なる“物”を超えて文化的存在へと変貌をとげたとする立場において、感性消費論の一つの極=亜流として位置づけられる。消費記号論では、人間は消費の場において経済合理性だけに基づいて行動するものではなく、人間そのものがもつ不可解で非合理的な本質に影響されて行動するから、成熟市場での行動が不可解なものとして現われると考える。そこでは商品が経済的属性を超えて“文化的記号”と化し、社会的・文化的脈絡の中で意味をもつ存在となったから分析の道具として記号論が有効だとされる。さらに、非合理性をもつ人間として消費者を仮定することから、記号=文化現象の背後に隠された意味を読みとる上で幅広い人間学の動員が必要とされる。

    このアプローチは、物的価値の差異性のなくなった市場において、感性的・文化的差異化が進みつつあるという鋭い問題提起と斬新な仮説を提示している。この仮説はとりわけ、商品の面白ブーム(ブランドネーム、ネーミングとデザイン、デザインそのもの、品質・機能、メニューのいずれにおいても面白化が進行している現象)のメカニズムを明快に説明してくれる。しかし、消費のトータルな行動の中から記号的価値だけを切り取って拡大するアプローチからは、歪んだ人間の姿しか見えてこない。人間学の動員によって深層の意味なるものを探ろうとすればするほど、逆に人間の姿が見えなくなってしまう。

    消費記号論の立場から、容器(ボトル)やCMの“面白合戦”に終始しているビールを礼讃するのもよいが、一方で単純な容器にRECYCLED(再生利用缶)と書かれたビールを売ることにも“意味”があるのではないだろうか。好き嫌いという“面白ブーム”レベルでの低次の感性欲求に応えていくことだけでなく、良いもの悪いもの(当然その基礎には好き嫌いがあるのだが)という高次の感性欲求に応えていくことも、社会の一員としての企業の新しい“文化的価値”創造に結びつく活動なのである。

    ここまで、今流行の消費社会論のうち、代表的な四つの論について紹介してきた。各々の紹介の中で私なりの注釈を加えておいたので、読者は相互の消費社会論の位置づけができたことと思う。既にお分かりのように、これら四つの消費社会論は、相互に排他的な関係にあるのではなく、各々がそれぞれの切りロから問題を拡大してとらえているに過ぎないのである。結論的にいえば、感覚的に国民の約九〇%がもっている中流意識という事実とは全く無関係に、実態としては今、わが国の社会階層は分化しはじめているのだといえよう。階層消費論は、それを経済的要因から実証的に説明したものであり、一方、『「分衆」の誕生』に代表される感性消費論は、それを生活水準の向上に伴う国民的目標の喪失という社会的要因によって主として説明しているのである。見方を変えれば、前者が必要条件で、後者が十分条件てあるともいえよう。

    いずれにせよ、人々の間で中流意識が崩れ、新しい階層社会が始まりつつあることは事実である。そして、もう一方で、人々の価値観が単にモノを所有することから自己実現へ向けて動きつつあることも間違いない。この二つの傾向がどのように関連して新たな消費社会が出現するか、もうしばらく見守らねばならないだろう。


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