2 成熟社会における豊かさとは何か?

◆一億総中流の時代

一九七三年暮れの第一次石油ショックの到来まで、わが国では、豊かさといえば貯金・土地・住宅などの資産や、車・家具・テレピなどの耐久消費財をたくさん保有していることを意味した。すなわち、「豊かさ=物的豊かさ」という公式が基本的に社会の中で成立していたといえる。戦後の廃墟の中から再スタートし、欧米へのキャッチアップを旗印に掲げて邁進してきたわが国では、大多数の国民にとってアメリカ流の豊かな消費生活を実現することが、胸をときめかすような目標であったのである。

ところが、高度成長末期における環境問題の深刻化や、“有限な地球”を世界に認識させることになった石油ショックの到来を契機に、大量生産→大量消費→大量廃棄のプロセスに対する深刻な反省が生じ、その頃から豊かさとは何かということに関し、新たな模索が始まったのである。石油ショックのもたらした真の意味は、消費生活に溺れきっていた我々に、少々モノの購入をさし控えてもそれほど生活が変わるわけではないということを気づかせてくれた点にあったといってよいだろう。もっともこの点では、わが国がお手本としてその一挙手一投足まで気にしてきた本家アメリカでも同じような状況が現われつつあった。すなわち、自由の国アメリカにとって唯一の汚点となったベトナム戦争の後遺症の影響もあって、六〇年代末から七〇年代初めにかけて、ヒッピーの風俗に代表される若者の間では、既成の社会のもつ価値観を否定する姿勢が強まってきており、生活の豊かさとは何かということに関して真剣な問題提起がなされていたのである。

石油ショック後、長い間不況に陥った世界経済の中で、徹底した省エネ化・合理化努力で窮地を脱し、その後エレクトロニクスを中心とする技術革新の波にうまく乗り、総じて良好な経済パフォーマンスを維持しえたわが国は、八四年、ようやく一人当たりGDP(国内総生産)でも一万ドルを突破した。スイス、アメリカ、ノルウェー、カナダ、スウェーデン、デンマーク、西ドイツの欧米七カ国と肩を並べて一万ドルクラブ入りを果たしたわけであり、この時点で名実ともに欧来へのキャッチアップという明治維新以来の国民的悲願が達成されたのである。もはや、わが国では国民を駆り立てるような共通のメルクマール(目標)が存在しない社会に突入しているのである。このことのもつ意味は限りなく大きい。

物的豊かさの追求が社会的合意になっていた高度成長時代までは、物の購買力を示す金銭という誰にとっても共通で分かりやすい尺度が存在した。人々は、隣近所を見回して、土地の広さ、住宅の大きさ、保有する車のレベルなど自他の豊かさの違いを明確に認識できたのである。家の中に入ることができれば、テレビ、ステレオ、冷蔵庫、家具、インテリアなどの耐久消費財を中心に、さらに自他の生活水準の違いが的確に把握できた。当然のこととして、自他の間に存在する格差を縮めようとする涙ぐましい努力が、全国民的広がりのもとで行われるようになる。物的価値中心の時代には、他人の所有しているモノを自分も所有したいという人並み意識が強烈に働くからである。これが人々を経済戦士に駆り立てた背景であり、それによって生まれた膨大な社会的エネルギーが、わが国を世界でもまれな“経済至上国家”に仕上げたといってよいであろう。そのプロセスの中で、これまで人々を駆り立ててきたわが国固有の価値原理である“人並み意識”がすっかり人々の間に定着しているように思われる。総務庁の八四年夏の「国民生活に関する世論調査」では、自分の生活程度を「中流」と答えた人が全体の九〇%を占めている。まさに、強烈な人並み意識が、一億総中流の時代をもたらしたのである。

◆人並み意識の弊害

人並み意識とは、他人と自分を比較し、自分を他人との関係の中で相対的に位置づけし、他人と同じレベルまで自分を引き上げていこうとする心的傾向のことをいう。そこでは、自分自身を人並みであると思えることももちろん重要ではあるが、それ以上に第三者が自分を人並みと見てくれることのほうがもっと大事なことである。そのため、いつも他人の眼に映る自分のことが気になるようになる。高度成長を支えてきたエネルギーのうち、物的価値の増大という共通のメジャー(尺度)のほうは既にその役割を終えたが、人並み意識のほうは形を変えて人々の潜在意識の中に残っているように思われる。

人々の潜在意識下にある人並み意識が、これから圧倒的に増える自由時間の中で、自分自身の可能性を追求し実現していく機会開発の活動の阻害要因になる恐れがある。本来、機会開発とは極めて個人的な営為であるにもかかわらず、人並み意識のもとでは、まず他人の志向しているクオリティ・オブ・ライフの観察からスタートし、その中で自分に適したパターンを取り入れるならまだしも、一般的に見られるパターンを人並みとして受け入れようとする性癖が働くからである。そこでは、相変わらず共通のメジャー・価値軸を求める志向が強く、他人の鏡に映る自分が絶えず意識される。このような傾向は、当然のことながら我々一人一人の精神的成長=成熟化を妨げることになる。人並み意識とは、単純にいえば、自分が皆と一緒であることを確認し、自らを安心させる気持ちにほかならない。逆にいうと、人並みでないものに関しては、それを認めたくない気持ちが強力に働くことになる。その結果、そういう社会では人々の多様な存在や自由な行動を積極的に認めない精神風土が形成されやすくなる。

眼に見える範囲で人々の消費行動をとらえると、今、確かに人々のニーズは多様化し、複雑化しているように思えるが、いったん人々の内面に分け入ると、人々の精神世界は驚くほど均質で違いのない“大衆の顔”をもった存在なのかもしれない。もし、そうだとすれば、これまで営々と努力し、その結果ようやく実現した物的豊かさの代償として、我々は極めて貧しくお寒い精神状態を手に入れたことになる。ビジネスの国際化に伴って、多くの日本人が外国の人々と接する機会が増えている中で、ビジネスから離れて一人の市民に戻った時の日本人は、まるで魅力のない存在になるということが最近よくいわれる。このことも、前述した事柄と決して無縁ではないだろう。ますますグローバル化が進む国際杜会の中で、日本人がリーダーシップを取れるようになるためには、経済以外の側面においても日本人が尊敬されるような魅力ある国民になることが今、求められているのである。

◆真の豊かさを獲得するために

それでは、我々が貧弱な精神状態から脱出していくにはどうすればよいのだろうか。私は、他人の眼を気にせず、自分が面白いと感じること、楽しいと思うことに全身全霊を込めて没入することしかないと思う。そのような習慣が出来あがってはじめて、自分なりの独自のライフスタイルが生まれることになる。そうなってくると、今度は他人が面白いと思ってやっていることを許容する気持ちがもてるようになるから、社会の中で多様な機会開発の試みが生まれてくることになる。もちろん、皆と共同してやることが楽しければ、手を取りあってやればよい。そこから新しいインフォーマルなネットワーキングが拡大していくかもしれない。要するに、頑固なまでに“自分なりの生活の流儀”にこだわることが何よりも大事なのである。徹底的に自分にこだわることによってはじめて、互いを尊重しあうゆとりの精神が生まれてくるのである。

かつて(もしかしたら今でもそうかもしれないが)、我々日本人は、イギリスを“英国病”だの斜陽の国だの、拳げくの果ては没落の国だのといってさんざん馬鹿にした。確かに、経済的側面における価値軸から見ればその通りかもしれない。しかし、経済が生活を支える基盤として重要なものであることは間違いないが、我々の生活が経済一辺倒であったとしたら、生きていく上でこれほど寂しい話はない。我々の生活は、もっと多面的であり、経済以外の多くの側面から成り立っている。たとえていえば、それが人に迷惑をかけないものであれば、“淫する楽しみ”でさえ堂々と認められねばならないだろう。そのイギリスに関して、ハンガリー生まれのG・ミケシュという人が、『没落のすすめ』(講談社)という“大英帝国讃歌”を書いている。強風が根っこごと大木を倒し、家の屋根を吹っ飛ばした時、イギリス人は「ちょっと涼しいですな」ぐらいのことを平気でいうゆとりのある民族である。この本の中で、ミケシュは、頑固で融通のきかないイギリス人気質をこよなく愛し、瀰漫(びまん)する現代文明に迎合するくらいなら、あえてエレガントに没落しようと説いているのである。今のわが国に最も必要なのは、このように自分なりの流儀を頑固に守り、しかも自然体で肩の力を抜いたゆとりある精神なのである。

私は、その国の「豊かさ=精神的豊かさ」を表わすメルクマールの一つは、その国が良質なエンターテイメント小説(冒険小説やハードボイルド小説など)を生み出しているかどうかであると思っている。あの“没落国家イギリス”が、実は世界最大のエンターテイメント小説の供給国であることが案外見落とされている。アリステア・マクリーン、ジャック・ヒギンス、ディック・フランシス、ハモンド・イネス、デスモンド・バグリー、ダンカン・カイル、ギャビン・ライアル、ヘレン・マッキネスなど、数えあげればきりのないくらい、世界的に著名な作家を輩出し、我々を楽しませてくれているのである。言葉の制約も影響しているのかもしれないが、残念ながらわが国ではまだ世界に通用するエンターテイメント作家は現われていない。言葉よりも、むしろ国内にちゃんとした“読み手”の層のないことが原因なのかもしれない。自分なりの流儀を貫き通す人々が増え、生活の中でエンターテイメントを楽しむ社会的なゆとりが生まれる時代になって、ようやくわが国でも国際的なエンターテイメント作家が出現するのであろう。

成熟社会における豊かさとは、結局のところ、個々人が自分自身に立ち帰ることであり、そのことの追求を通して、世界に通用する普遍的な生活のスタイルを我々が生み出していくことにほかならないのではないだろうか。


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