「情報」という言葉は、有名な明治の文豪森鴎外がつくったといわれている。その鴎外を生んだ町が島根県の西の端、山口県との県境にある津和野であることは、観光ブームで津和野を訪れる人の増えた今日ではよく知られていることである。その津和野は人口はたかだか八〇〇〇人に過ぎない小さな町であるが、幕末から明治維新にかけて勤王の国学者大国隆正をはじめ、洋学の西周、文豪森鴎外など十指に余る偉人を輩出している。わが国市町村の人口当たりの偉人輩出率なる統計をとれば、恐らく異常値と見なさざるを得ないほどずば抜けて高い数値を示すに違いない。何もとりわけ津和野にだけ優秀な人間が集中して住んでいたわけでもないだろうから、なぜこのような不思議な現象が生まれたのか理解に苦しむところであろう。その謎をとく鍵は、実は幕末から明治維新にかけての津和野藩における“情報”への取り組みにあるのである。この津和野藩のケースほど、組織の戦略的意思決定における情報の重要性を端的に教えてくれる例はないと思われるので、以下で詳しく紹介していこう。
津和野は、明治四年(一八七一)の廃藩置県に至るまで約六〇〇年にわたって続いた伝統的な城下町である。有名な城主としては千姫との悲恋物語の主人公、坂崎出羽守がいるが、その後廃藩置県に至るまでは亀井家の統治のもとにあった。大外様の長州藩と親藩の浜田藩や松江藩との間にはさまれた津和野藩は、石高わずか四万七〇〇〇石の小外様であった。そのため、幕末から明治維新にかけて津和野藩が置かれた状況は、絶えず外部の巨大な勢力に国の存否をおびやかされてきたあのバルカン諸国と全く同様であった。
時代が徳川三〇〇年の封建的な武家社会から、天皇を中心とする新しい資本主義社会へと歴史的に大転換を遂げつつあった時、津和野に一人の卓抜なリーダーが誕生した。天保十年(一八三九)に、弱冠一五歳で津和野藩主となった亀井茲監(これみ)公がその人である。時代の荒波を乗り切り、小藩である津和野藩を存続させていくためには、“人物”を育て、的確に天下国家の情勢を読み切る“情報力”を武器とする以外に道のないことに彼は気がついていた。そこで、まず藩校である養老館の充実に力を注ぎ、従来の漢学、礼学、数学、兵学、医学のほかに国学を設け、また医学の中に蘭医科を設置した。そして教授陣には、洋学の西周、国学の岡熊臣、大国隆正、福羽美静、数学の木村俊左衛門、桑本才次郎、蘭医科の吉本蘭斎等、養老館の出身者でもあり、当時の日本のインテリの代表ともいうべき人々をあて、厳しい英才教育を行わせたのである。その成果が、森鴎外をはじめとする逸材の輩出につながったのである。
今一つの施策は、有能な藩士を積極的に他藩に遊学させたことである。養老館で鍛えられた多感な青年藩士たちが江戸、大阪、京都などに遊学し、勤王の志士をはじめとする他藩の志の高い人々と接触する中で鋭敏に時代の流れを読み取っていったことは、小藩津和野にとってかけがえのない財産であった。情報の重要性をよく知っていた茲監公は、内外の情勢がさらに風雲急を告げると、懐刀であった福羽美静を中心とするエ−ジェントを京都に送り、天下の情勢をキャッチさせて逐一報告させた。
このような努力が早速効を奏することになる。第一回の長州征伐(一八六四年)が始まったからである。幕府に公然と盾突くとお家とりつぶしになるし、かといって隣国の大藩長州(三六万看)に背けば、たちまちのうちにつぶされる。生き残るためには、的確な情勢分析に基づいた極めて微妙な対応が求められていたのである。当時の津和野藩の情勢認識は、「幕府側の総督となった尾張侯も参加した諸藩の意向も戦闘を望んでいないし、主戦派である高杉晋作らがまだ藩政を牛耳っていない長州も徹底抗戦には出ないだろうから、本格的な戦闘にはならないだろう」というものであった。そこで、従来から長州と関係の深い福羽美静を表面的に謹慎させて幕府の顔を立てることにし、藩としては形だけの領境自衛策をとることによって事態を回避する作戦に出た。予想通り、長州が恭順の意を表したため事なきを得たのである。
次いで、一八六六年、幕府は第二回の長州征伐の出兵をした。この時には、既に薩長連合を中心とした新しい勢力が形成されており、高杉晋作の率いる長州の奇兵隊の戦力についても十二分に調査ずみであったので、幕府には冷たい態度をとり、長州と密約を交わし中立の立場をとった。この時、征伐隊として、親藩の先鋒に加わった浜田藩が散々な負け戦をしたのであるから、津和野藩がとった戦略は正しいというべきであろう。この第二次長州征伐は幕府の完全な失敗に終わり、これ以降、時代は急速に進展し、二年後にわが国は明治維新を迎えることになるのである。
余談であるが、明治新政府の施攻方針を決定し、事実上日本の攻治を動かした理論集団が津和野藩から輩出した人材であったことは、もっと知られてよいことだろう。明治維新の眼目であった「王政復古」を「祭政一致」という神武建国の政治イデオロギーに求めて、この精神を庶民に根づかせることによって、国家統治の中心が将軍から天皇に移ったことを国民に徹底させようとしたのが、亀井茲監、大国隆正、玉松操、福羽美静など神祇官の要職にあった津和野藩出身の人々だったのである。
下手をすれば、幕府か長州のいずれかに踏みつぶされていたであろう小藩が、しぶとく生き残り、新しい日本を創る上での中枢的な役割を担い、さらにその後の明治文化の発展に貢献する多くの先駆的偉人を輩出したのである。その原因は既に見てきたように、吹けば飛ぶような小藩が、生死を賭けて惰報力強化のための活動にすべてのエネルギーを投入したことの結果だったのである。なお、参考までに幕未から明治にかけて活躍した主要な津和野出身者をリストアップすると、次の通りである。
その他、明治以降に生まれた人でも有名な文化人がたくさん輩出している。例えば、劇作家の中村吉蔵、大正中期の名女優伊沢蘭奢、語り部として抜群の才を示した徳川夢声、童話・児童劇界の功労者天野雉彦などの人々がそうである。
時代の荒渡の中を的確な情報戦略によって生き抜いたこの津和野藩のケースは、同じく転換期の真っただ中にあるわが国の企業が情報戦略を構築していく上で貴重な教訓をもたらしてくれる。以下では津和野藩のケースを踏まえながら、これからの企業における戦略的意思決定に関わる情報戦略構築の要件について整理しておこう。
企業における情報活動は、当たり前のことであるがゴーイング・コンサーンとして自社を存続・発展させるために行うものである。時代の潮流を的確にとらえ、打つべき手を打つために情報活動は行われるのである。現在のように大量の情報が氾濫し、情報過剰の中で皮肉にも一種の情報欠乏症状が出つつある時代には、トップマネジメントが自社のポリシーを明確に打ち出し、何をするために何を知りたいのかを明確にさせることの重要性が高まっている。具体的な経営問題に焦点をあてた問題解決型の情報活動が何よりも求められているのである。戦略的意思決定の主体であるトップが、自らの情報ニーズを関係者に明確にしていくことが、情報戦略構築の前提条件になるのである。
津和野藩のケースでも、このことは端的に示されている。卓越したトップ(茲監)が、自藩の存続を左右する薩長や幕府の動向に関する情報収集に最大のウェートを置き、藩内で最もインテリジェンスの高い福羽美静をその責任者として自由に活動させたことが、成功の基本的な要因だったのである。従来のように、伝統的なタイプの間諜(忍者)を諸国に配置したのでは決して必要な情報を入手することはできなかったのではないかと思われる。彼らは情報の所在場所に近づき、文書や会話など外に見える形の情報を入手する点ではプロである。しかし、時代の大きな流れの中で、一体誰が接触すべきキーマンであり、自藩にとって欠くことのできない情報が何であるのかについては、彼らにはとても的確な判断を下せなかったと思われるからである。転換期の情報活動においては、歴史の流れという一見目に見えない情報を洞察していく能力が何よりも求められているのである。
亀井茲監公が情報力強化の施策を展開した時、伝統的な間諜を育成するのではなく、藩校養老館での英才教育に力を入れたのはなぜだったのだろうか。恐らく、学問の基礎をしっかりと身につけ、時代の流れをセンシティブに読むことのできる人間でなければ、転換期の惰報活動に従事することができないことを彼が本能的に理解していたからに違いない。現に、茲監公の命を受け、津和野藩の“CAI局長”としての役割を果たした福羽美静は、単なるエ−ジェントではなかった。国学の権威者であった彼は、時の政局を左右する薩長や幕府の要人と接触し、彼らとの論争的アクセスを通じて時代の必然を鋭く見抜くとともに、時には相手にとって不足のない幕末の志士たちを説得することのできるタフなチェンジ・エ−ジェント(戦略仕掛人)だったのである。
経営情報の担当スタッフに多くの人を配置し、デスクワークで新聞・雑誌などの二次情報の分析・評価に多大の時間と金を使っても、企業が生き残りを賭けて決断を求められる局面に役立つ情報は必ずしも入手できない時代に入っている。むしろ、既成の秩序が崩れつつある現在では、具体的に事が生起している現場におもむき、問題の本質を見極める能力をもった少数の人間だけが、企業の情報活動の中枢を担えるのである。そのような現場感覚をもった人間がトップの意思を受け、必要に応じて世界中を飛び回ったり、情報ネットワークを介して世界中の有能な士と自在に知的対決を行ったりすることから、企業の戦略的意思決定にとって本質的に重要な情報が創造されるのであろう。必要なのは、金をかけて立派な情報システムを整備したり、たくさんの人間を情報活動に張りつけたりすることではない。企業の中に必ず存在する“時代の必然を見抜いている人間”を見出し、彼に自社の情報戦略を任せていくことが何よりも重要なのである。
企業の情報力は、結局のところその企業が抱える人材の能力レベルによって規定される。だとすると、どれだけ多くの秀れた人材をネットワーク化できるかどうかが、企業の情報格差を生むことになる。もちろん、伝統的に企業はこのことに努力してきており、社外人脈の形成に多大な労力と金を費やしてきた。しかし、私には、大企業ほど中央のエスタブリッシュメントの世界を中心とした狭い範囲の人々しかネットワーク化していない傾向があるように思われる。このことは、現在のように既存の秩序が崩れつつある転換期には、極めて危険なことである。新しい時代のビジネスリーダーは中央からだけでなく地方から出る可能性も高いし、既成の権威の中からだけでなく現状を否定する冒険者精神にあふれたベンチャー企業家の中から出る可能性も強いからである。
既に紹介した私の所属する「東京梁山泊」には、残念ながら、一流大企業といわれる会社のトップの方は一人も参加していない。それどころか、エリート社員といわれる人たちの参加も皆無に近いのが実情である。私は、何も梁山泊に参加しなければ、これからのビジネスが展開できなくなるなどと大層なことをいうつもりはない。注目すべきことは、今世界各地で梁山泊のようなインフォーマルなネットワーキングの活動が燎原の火の如く盛んになってきており、知的生産を基礎とする情報社会の中で、そのような活動が一定の地位を占めつつあることなのである。
もちろん、このような活動の中からネットワークを活用した未来型の新しいビジネスが生まれる可能性も極めて高いのである。だとすると、エスタブリッシュメントを中心としたフォーマルなネットワークしかもたない企業は、実に偏った情報力しかもてないことになる。これからの時代は、インフォーマルなネットワークをも視界に入れた情報活動が必要となるのである。先鋭な問題意識をもった企業が、個人の資格で参加する非公式な対外活動の中から得られる情報をいかに組織化して企業経営に反映させていくか、がポイントとなる時代がやってきたのである。
情報活動に諜報活動的側面があることは否定できない事実である。ライバル企業の新しい技術・製品に関する情報や、価格・コスト・投資などに関わる情報を早い段階で入手できれば競争上優位に立てるからである。しかし、このような情報活動に過度に傾斜することは、長い目で見ると企業の健全な発展を阻害する可能性がある。新しいコンセプトに基づく商品やサービスを創り出すことが問われる機会開発時代には、他社のやっていることはあまり参考にならないし、何よりも他人の秘密を盗むことにはある種の後ろめたさがつきまとうから、自社内に自由で創造的な活動を助長していく上でもマイナスになるだろう。また、このような活動は絶えず非合法すれすれのアプローチを求められるから、下手をするとIBMスパイ事件のような事態に陥る危険性も計算に入れておかねばならない。
新しい事業の創造に結びつく情報は、極めて“知的集約度”の高いものが求められる。探せばそのような情報がどこかに転がっている、と考えるのは甘いといわざるを得ない。もちろん、新しい事業につながるヒントになる情報は世に存在するが、問題は、それがすべての人に共通に見えるものではないことである。強烈な問題意識をもち、情報感度のボルテージを高めている人間だけが、一見つまらない情報をきっかけとして知的集約度の高い新たな惰報創造を行うことができるのである。
人間は所詮見たいものを見、聞きたいものを聞くという制約をもつ存在なのであるから、逆に絶えず自分なりの仮説をもち、それを検証する形で情報活動を展開すべきなのであろう。その意味で、自己の内部探検能力が高く、より包括的な認識枠組をもつ人間ほど情報創造型の情報活動に適した人ということができる。そろそろ企業の情報活動を伝統的な情報入手重視型から情報創造重視型へと再編成してゆくことが必要な時代が到来したようである。
文豪森鴎外が、時代のキーワードとなっている情報という言葉をつくった人であることについては最初に紹介したが、実は、明治の啓蒙恩想家西周がもう一つのキーワードである「哲学」という言葉をつくっている。今まさに“情報を哲学する”ことが、企業に何よりも求められているのだといえよう。