第VII章 未来型企業=ホロニック・カンパニーの条件

1 日本的経営ではもうやっていけない−−情から論の経営へ

◆プラスの「ブライト・ピーブル」戦略

文房具やビジネス機器の大手にプラス(本社東京、社長今泉嘉久氏、資本金三億八五〇〇万円)という会社がある。現在、社員総数一一〇〇人、年間売上高約四六〇億円(一九八四年五月期)という中堅規模の企業である。このプラスでは、日本的経営に束縛された既存企業のあり方に対する危機意識から、現在、服装の自由化(ノーネクタイ)や社長室の廃止など企業のデレギュレーション(規制緩和)を進める“経営リベラリズム”を実践中である。その象徴的な現われが、八四年二月から同社が打ち出した「ブライト・ピープル(bright people)」という生活理念である。福音館書店の絵本のような可愛いイラストの表紙のついた小冊子に、プラスの生活理念が述べられている。まず疑問が出てくるのは、なぜ「企業理念」なのでなく「生活理念」なのだろうかということである。これについて、小冊子のはじめの中に、次のように述べられている。『……それは「確かに、プラスという企業が今後どうありたいかということも大切であるが、それ以前に、プラスを構成するかけがえのない私たち自身がどうありたいかを、まず考えるべきではないだろうか。そして、会社というものを、仕事の場というよりは生活の場として、とらえてみてはどうだろうか」というものです。……』(前後の文章を省略。強調は筆者)

このように、プラスでは、企業を単なる仕事の場でなく、生活の場として広くとらえることによって、働く人々と企業と社会の新しいつながりを創造しようとしているのである。「ブライト・ピープル」という標語は簡潔な八つのスローガンにまとめられているので、ついでに紹介しておこう。

私たちは常にあらゆる意味において、“ブライト・ピープル”であるかどうかを自らに問いかけましょう。たとえば
●いまの自分の行動は“ブライト”であるだろうか
●いまの自分の考えは“ブライト”であるだろうか
●私たちの環境は“ブライト”だろうか
●私たちのシステムは“ブライト”だろうか
●私たちのコミュニケーションは“ブライト”だろうか
●私たちの商品は人びとを“ブライト”にしているだろうか
●私たちのサービスは人びとを“ブライト”にしているだろうか
●私たちの情報は人びとを“ブライト”にしているだろうか

このような問いかけを社員一人一人が日常的に行うことによって、社内を“ブライト”にし、社員の個性や創造性をフルに発揮して環境の変化に対応していこうというのがプラスの戦略なのである。その成果が早くも現われたのが、新人女子社員が入社半年で企画開発した小さな文具セット「チーム・デミ」だったのである。ベストセラーを続けるチーム・デミは、八五年の七月末現在で前年度の会社の売り上げの約一割に相当する約五〇億円を売り上げるという驚異的な成功をおさめている。

また好奇心のかたまりのような会社であるプラスでは、全社員の約二割にあたる二〇〇人を毎年海外へ派遣し、各自の見たいものを好き勝手に見させている。このような自由な活動の展開の中から、そのうちプラスは、文房具やビジネス機器の世界にとどまらないスケールの大きい新しいビジネスを創出するような予感がしてならない。

伝統的な日本的経営を超える新しい取り組みを行っている典型的な未来型企業=ホロニック・カンバニーの代表としてプラスを紹介した。本書でも他にいくつかの未来型企業を紹介したが、工業社会から情報社会へと経営環境が大きく転換する中で、プラスのようにリベラルな経営を志向する未来型企業が急速に増えてきている。もはや、伝統的な日本的経営では新しい時代を乗り切れなくなってきているのである。

◆日本的経営ではなぜ行きづまるか

それでは、なぜ今、日本的経営が限界をささやかれるようになってきたのだろうか。この点については、第II章においても触れているが、ここで改めて問題を整理しておこう。

一般に、日本的経営の特長(メリット)は次の三つによって説明される。

(1)年功序列制と終身雇用制が従業員の会社への忠誠心を高める。

(2)稟議制によるボトムアップ型の意思決定は、全社的な意思統一と団結を強化する。

(3)集団主義のもとで共同責任による業務の遂行は、各自の能力の不備を補い成果を向上させる。

これに対して、日本的経営のもつデメリットないし危険性は次のように指摘されている。

(1)日本的経営のもとでは構成員に対して厳しい同質性が要求され、突出した人間が外部にはじき出されるという閉鎖性を生みやすい。

(2)トップダウンによる意思決定が形式化することから、真のリーダーシップが不在となる。

(3)共同責任のもとで大勢順応の意識がはびこり、無責任体制が発生する。

このような特性をもつ日本的経営が最もその真価を発揮したのは、高度成長期から二度にわたる石油ショックを克服する過程においてであった。「高度成長期には、欧米諸国に追いつき追いこす」という明確な戦略的目標のもとで欧米の先進技術を導入し、その改善・改良というオペレーショナルレベルでの集団的な取り組みによって高い生産性を実現し、安くて良い製品を大量に作り出し、輸出主導によって外貨を稼ぎ、驚異的な経済成長を遂げてきたのである。その後の二度の石油ショックの時も、危機意識をテコに日本的経営をさらに徹底して展開した。お陰で省エネ・省力化など合理化が成功し、世界経済の中で唯一良好な経済パフォーマンスを実現することができたのである。このように、日本的経営は、目標が与えられている時、それを達成する手段価値を実現していくという面では圧倒的な成功をおさめたのである。ここまでが日本的経営の“成功物語”すなわち“光”の部分である。

ところが、欧米先進国と肩を並ベ、見習うべきお手本がない状況のもとで、自前で目標を設定していくことが求められるようになると、急に日本的経営のデメリットが目立つようになってきた。とりわけ、内外市場の構造変化に対して適合していくために、日本の企業は新しいコンセプトの製品・サービスを生み出すプロダクト型のイノベーションを求められるようになってきたから、なおさらである。

プロダクト型イノベーションの展開にとって、なぜ日本的経営が阻害要因になるのだろうか。日本的経営の中核であるオペレーショナルな工程革新(プロセス・イノベーション)の展開においては、革新の主要な手段は職場小集団の協働による細かい改善や改良の積み重ねである。したがって、現状からの飛躍もそれほどではなく、リスクも計算できる範囲内であることが多い。一社一心のガンバリズムで皆が力を合わせて取り組めば、大概のことは何とかなってきたのである。ところが、製品革新(プロダクト・イノベーション)型アプローチの展開においては、先人未踏の地に自ら足を踏み入れ、創造的な開発を進めていかなければならない。本格的な革新を目指すほど莫大な投資が必要となり、リスクも高まってくる。そこでは、適切な戦略目標の設定が極めて重要になってくる。何よりも、先見力と洞察力が求められるのである。しかし、「おみこし経営」には創造的なリーダーを必要としなかったから、そのような企業では、不確定なリスクの高い状況を的確に読み切り、自分なりの確信をもって目標を設定し、敢然と実行していく気概をもったリーダーシップに欠けているのが実情であろう。

今一つ重要な問題は、プロダクト・イノベーションには、構成員の同質性ではなく、異質性が必要不可欠だということである。しかし、日本的経営の強さは、日本的集団主義のもとで協調性を強調することによって、一社一心のガンバリズムの源となる一枚岩の同質性を生み出してきたことであったといえる。したがって、過去の成功体験が強い会社ほど、未来への新しい挑戦が困難になるという皮肉な現象が出てくるのである。日本的経営は、人間を重視し、大事にする経営だということが今でもよくいわれている。このことは、一社一心の愛社心をもつ仲間を互いに大事にするという意味ではその通りである。しかし、同時に、一社一心でない“自分なり”の愛社心や仕事に対する忠誠心をもった人間が、新しい(あるいは異質な)発想やアプローチで、今までと違う何かをやろうとした場合、「それはわが社向きでない」という集団の有形無形の圧力によって、つぶされることが多かったことも事実である。

このように、これまでの日本的経営には、構成員に対して厳しい同質性を要求し、異分子をスピンアウトする傾向があったといえるだろう。異分子を排除し、突出した人間を集団の圧力で抑えつけるような経営が、本当に人間を大事にするマネジメントだとは私には到底思えない。身内の人間だけを大事にする閉鎖性が、日本の企業社会を開かれた市民社会の論理が通用しない一種独特のコミュニティにしたとさえいえるのではないだろうか。そのことは、ロッキード事件のように企業悪が問われる時、日本の企業社会では絶対といっていいほど内部告発が行われないという事実に端的に示されている。むしろ、企業の罪を一身に引き受け、自殺する人間が現われることのほうが多い社会である。このような社会は決して健全な社会とはいえないだろう。

◆ホロニック・カンパニーへの道

そうはいっても、日本的経営がうまくいっている間は“光”の部分にのみ焦点があてられ、“闇”の部分は無視されがちであった。絶妙のタイミングで「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などとおだてる者が現われたりするから、なおさらである。もちろん、企業経営は同好会のお遊びとは違うから、日本的経営が現実に機能し、それで高いパフォーマンスを実現できている限り、先で述べたようなことは“きれい事”として片付けられてしまうのも事実である。

ところが最近になって状況は一変した。まず第一に、我々の社会が工業社会から情報社会へと大きく転換している中で、市場も急激に構造変化を遂げてきていることがあげられる。日本的経営の成功によって我々が豊かになり、人々のニーズがモノ(物的所有)からコト(自己実現)へと移行するのにともない、一社一心のガンバリズムがもはや通用しなくなったのである。この辺の事情は、第II章で詳しく指摘したからここでは繰り返さない。要するに、本格的な知的生産が求められるようになった現在では、企業は物的生産至上主義の時代に、効率中心に組み立てられてきた日本的経営を自ら克服していかないと、環境変化に適合して生存していくことができなくなってきているのである。

もう一つ、日本的経営の存否が間われている重要な局面がある。それは、日本企業が本格的国際化の段階に到達し、海外において日本的経営を広範に展開していく必要に追られていることである。目の前でやってみせることのできる生産現場での取り組みは、比較的好意をもって受け入れてもらえるが、それ以外の分野ではおおむね日本的経営は不評であるというのが、海外におけるこれまでの評価であろう。自分の意見や判断をはっきり他人に表明することに慣れていない日本人にとって、外国人との共同作業は言葉の制約以上に難しい。特に、マネジメントが明確に意思決定を表明し、その根拠を合理的に説明できないと、欧米人には極めて強い不信感をもたれることになる。目的の達成に対して、個々の人々の役割と責任を明確にしないで、皆で仲良くやろうとする日本的経営の組織原理は海外ではまず通用しないのである。今、わが国の企業に求められているのは、特殊日本的経営を超えたどこでも通用する普遍的な経営のスタイルを確立していくことなのである。

このような問題意識に基づいて、日本的経営を克服する新しい経営の方向を私なりの仮説として提示したのが、本書で提言しているホロニック・マネジメントなのである。しかし、私は何も特別なことをいっているわけではない。企業社会が特殊なコミュニティから早く脱却し、市民生活と当たり前に対話のできる開かれたコミュニティにならなければ、多様な人々の機会開発に応えていくことができないことを指摘しているだけである。市場に多様なニーズをもつ人々が存在するのだとしたら、企業社会の中にもそれをセンシティブに受けとめることのできる色々なタイプの人がいなければ、変化に適応していくことはできないのである。企業にとって、世の中の変化は自身の成長にとって最大の拠り所なのであるから、変化をチャンスに結びつける多様な人材を内部に抱えることが何よりも優先するはずである。

その意味で、プラスの「チーム・デミ」の開発のケースは絶好の踏み絵になる。あなたの会社では、学校を出たばかりの新人女子社員が「かわい〜い」という感性でもって自分も欲しい小さな文具セットの企画を持ち出してきた時、それが実現できるであろうか。恐らく、企画開発に新人女子社員の意見が反映される仕組みのない会社も多いことだろう。仮に企画が上にあげられたとしても、“こんなに小さくて扱いの不便なモノが売れるはずがない”ということでボツになる企業も多いのではないだろうか。そうだとすると、我々は服装の自由化など積極的に企業のデレギュレーションを進める未来型企業のプラスにもっと学ばなければならないであろう。

日本的経営を克服する一つの道は、「当社らしさ」という分かったようで今一つピンとこない日本的集団主義を支える価値原理を離れ、人々が論理的な思考で互いにものごとをやりとりする習慣をつけることであろう。その際、一つの提案をしたい。それは互いを社長、部長などと肩書きで呼ぶのをやめて、さんづけで名前を呼ぶのである。その精神は、まず第一に学校を出て社会に入ってきたらお互い一人前の大人なのだということを認め合うということである。今一つは、役職は業務を円滑に遂行していくためにたまたま役割分担として設けているのであり、人間としての評価とは何の関係もないことなのだということを徹底する意味をもつ。

実際、年功序列も多数決もきかない知的生産の世界においては、互いをイコールパートナーとして認め合うことからすべてがスタートするのである。何よりも、すべての人をさんづけで呼べば、彼は(彼女は)自分より入社年次が先か後かなどと面倒なことを考える手間が省けるという効用もある。

さんづけで互いを呼ぶ習慣は、金もかかるわけではないし、明日からすぐにでも実行可能なことであり、ぜひ、取り入れたい習慣である。一見、単純なことではあるが、このことのもつ意義は極めて大きい。なぜなら、それが旧来の文化を否定し、ホロニック・カンパニーとしての新しい自由な企業風土を形成していく上で第一歩となる試みだからである。とにかく、一刻も早く、互いにいいたいことがいえ、まともなことがまともに評価される自由闊達で知的刺激にあふれる企業社会を創出したいものである。


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